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わたしの「救い」

 誰にも言えない、誰にも言わないけど、ほんとうは毎日が限界で、決して戻って来られない「暗いところ」へ引きずり込まれそうなところを、なんとか踏みとどまっている。「暗いところ」の誘惑は強く、見えない手で手首や、腕や、足首をぎゅっとつかまれて引っぱられるような感覚もある。電車とホームのすきま、マンションの九階の柵、車の往来の激しい道路や、早朝の歩道橋、もしくは特急電車が行き交う踏切の、遮断機の向こう側。わたしの生きる町や駅、職場、商店には人がたくさんいるけれど、世界から切り離されて一人になったような気がする。
 電車に乗って、行き過ぎる別の電車の中にいる人を見つめている。スピードに乗ってさっと通り過ぎる瞬間、窓のむこうに見えた人、座席でうなだれていた人は、わたし自身のように見える。

 長い夏が終わった秋は、朝にも夕暮れにも夏のなごりが残っている。体の奥にも、夏の暑さが微熱のように残っていて、全身が重い。残業を終えて帰宅する途中、食べ物を買いにスーパーに入った。夜十時のスーパーには人が少なくて、空調が効いていてひんやりしている。スーツを着た男性や、Tシャツと短パンの女性が、店のかごに総菜や飲み物を入れている。レジには「研修生」と書かれた札をつけたすらっとした女性が立っている。同じように札をつけた店員さんは、棚の品物をきちんと並べている。いろんな人が近くにいるのに、なんだか遠くに見える。薄いすりガラスごしに世界を見ている感じだ。
 かごを持って、必要なものを棚から選んで、一つずつ入れる。わたしの「明日」や「その先」のために必要な食べ物は、手に取るとずっしりと重い。食べて、これからも生きるのかという実感で、全身がさらに重くなって、自分の立っている地面に吸いこまれるように、気持ちが落ちる。
 そのとき、なじみのある旋律が耳に入った。こまかく鼓膜を震わせる、とてもやわらかなメロディだ。よくスーパーでかかっている、もともとの曲をアレンジしたタイプの曲だけれど、曲の美しさはまったく変わらない。心がどきっと跳ねた。旋律に合わせて、心の中に歌詞が浮かび上がる。その曲は、キリンジ「Drifter」。

 甥が幼いとき、たしか八歳くらいだったときのこと。
手をつないで彼と散歩をした。夏の初めの日曜日、昼前の光は明るく、町のすみずみまでくっきりと照らしだすと同時に、白く透明な光が、すべての輪郭を淡く縁取っている。甥はわたしの手をぎゅっと握ってぶらぶらさせながら、目についた言葉を口に出している。「まちをきれいに」「ポイすて禁止」「迷い猫をさがしています」。電信柱にぺたっと貼ってある貼り紙や、知らない人の家に貼ってあるポスター、自販機、コンビニ、目につく「言葉」はたくさんある。耳でとらえる言葉ではなくて、目で見る言葉だ。駅に近づくと、目で見る言葉はどんどん増える。「ポイントでおトク」「ながーいおつきあい」「ここに捨てるな」「かき氷あります」……。ぼんやり甥の言うことを聞いていると、彼は突然「ぜったい負けない」と口にした。ぜったい負けない? どこにそんな言葉が?
「あっち」
と彼が指さす方向を見ると、破れかけた選挙のポスターが見える。
「あれは、選挙のポスター」
「ふーん……」
破れているので前後の言葉がどんなふうだったかわからない。「……対、負け」くらいしか見えない。どうしてそんなことを言い出したのか。なんだか不思議だと思って、そんな出来事はすぐ忘れてしまった。

 その後、仕事でうまくいかないことがあった。うまくいかないことがあると、いつも自分の中に「落ち度」を探して、自分をひたすら責める。誰しも完璧ではなくて、その時には精一杯考えて判断し、よかれと思って行動するのに、後になって失敗する……そんなことはよくあることで、当たり前のことなのに、自分のしたことについて必要以上に責めるのは、責任感が強いわけでもなんでもなく、自分の能力を過度に見積もりすぎているからだ。その事実にまた気分が落ちる。わたしには「こうしたらいいよ」と相談できる人もいないし、「大丈夫」と言ってくれる人もいない。また「暗いところ」へ引きずりこまれそうになる。自分の心に開いた、暗い穴の中に落ちていく。現実のわたしは、誰もいない職場の自席で、パソコンに向かって文書を作っている。本当のわたしは、暗い穴に沈んだままでてこない。窓の外はまっくらで、遠くに一軒家やマンションの明かりがついている。知らない誰かの家では、夕食を食べたり、家族でテレビを見たりするんだろう。何もかも嫌だな、と思っていても、「嫌」を解消するために、行動を起こす気にもなれない。わたしはうらやましいと思いながら、ぼんやり遠くの明かりを見つめた。そのときわたしの後ろで、「ぜったい負けない」と声がした。はっとして我に返ると、甥の声がまた聞こえる。「ぜったい負けない」

 ときどき、わたしは見知らぬ誰かが差し伸べた手をつかむようにして、自分の心を取り戻す。頼りにできる誰かや、パートナーがいるわけではないので、いつも自分で自分を「なんとかする」ことに慣れているつもりでも、時々どうしようもなく疲れて、心が死んで冷たくなる。わたし自身を見失う。そんなときに助けてくれるのは、知らない誰かの言葉や耳がとらえる旋律、目に映る色彩、そして、自分の心がはっとした瞬間だ。助けてくれる「何か」の存在を感じる瞬間は、少ないけれど時々ある。