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【阿仁植物紀行】つぶ沼の化け桂

打当(うっとう)の山奥に「つぶ沼」という沼がある。巨大なツブ貝が棲んでいるという言い伝えがあるが、その姿を見た者は今日日いない。代わりに、アブラハヤやヌマエビたちが静かに暮らしている。

来訪者のいない静かな沼。季節は秋。蝉や蛙の声は消え、時折吹く風によって起こる木々がしなる音と枯れ葉の舞う音が、ただ湖面の上を渦巻いて空に消えていくのみである。

つぶ沼の北側は平地でスギ林が広がっている。反対に、南側には険しい斜面が立ちはだかる。25度~35度、場所によっては40度に達する。地面にはゴロゴロと泥岩が堆積しており、登るも下るも注意を払わなければならない。

十分な間隔を空けてスギが立っている。どこか古びたスギたちの足元はリョウメンシダ、オシダ、ジュウモンジシダ、コタニワタリなどにすっかり覆われ、ところどころにミヤマイラクサが生えている。

昼時も太陽の光がなかなか差し込まず、少し薄気味悪い場所。

ここに、化け物はいる。

周りの樹木と比べて明らかに異様な樹形。車ほどもある巨大な株。樹皮はびっしりとコケに覆われ、不気味な曲線を描いて白い幹が空に伸びている。

まさに化け物のような風貌の木はカツラである。

カツラは主に渓流沿いで見られる植物である。大木に育ち、複数の幹を持つものが多い。萌芽能力の高い樹木で足元には無数のひこばえを備える。何らかの理由で上部の幹が折れると速やかにひこばえを伸長させ、次の幹に置き換わる。

その寿命は500年とも1,000年とも言われている。

化け桂には中央の幹がない。かつては真ん中に太い幹があったのだろうが、もはやそれも落ち切って、まるで王冠のような風貌になっている。

そして、この化け桂は生きている。

地面は一面のカツラの葉で覆われていて、周囲はカツラ特有の甘い香りで満ちていた。

ここは25度~35度の急斜面である。加えて、冬季には3m近い雪が降り積もる。ここに根を下ろしてから、一体いくつの苦難を乗り越えてきたのだろう。

化け桂は重要な目印でもある。里と違い、山には建物のような目標物はない。今でも、阿仁のマタギたちは化け桂を集合場所にしたり通過地点を伝えるための目安として利用する。

マタギたちだけではない。かつては里の人々の往来もあった。ここを越えると早瀬沢に下り、やがて隣の仙北市に抜ける。この斜面は「ウシコシ(牛越し)」と呼ばれ、牛を連れた人々がこの急勾配を越えていったという。尾根には畑もあったそうだ。きっと彼らもこの化け桂を目印にして歩いたに違いない。

それも今は昔の話。今では人の往来も無くなった。


つぶ沼の化け桂。
いにしえの足音を内に秘め、今日も立つ。

カツラ (桂)
Cercidiphyllum japonicum Siebold et Zucc. ex Hoffm. et Schult.
分布|北海道、本州、四国、九州の温帯
樹形|落葉高木  花|雌雄異株

〔フィールド版〕改訂新版「日本の野生植物Ⅰ ソテツ科~コミカンソウ科」

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