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三年千日活動より日々の実践

 今月も無事に月次祭が終わった。前日から準備などやっているが、終わると、いつもホッとする。いつも祭典後に『諭達』を読み、その後、少しお話をさせてもらうが、自分自身の信仰を見直す上でも話すことは大事だとも感じる。今日、お話させていただいたことを振り返り、加筆して少しまとめてみることにする。

縦の伝道で子に本当に信仰が伝わっているのだろうか

 最近、本当の信仰が伝わっているのだろうか?と思うことが多い。「縦の伝道」と、よく言われるが、果たしてそれは正しいことなのか、しなければならないことなのだろうかとも思う。何を今さらという感じもするが、子や孫へ信仰を伝えていくことは大事なことだと確かに思う。しかし、その伝えるべきことが本当に伝えるべきことより、他のことになっているのではないかとも思うからである。話が抽象的すぎてわかりにくいかもしれないので、具体的に話せば、形式や作法、習慣や制度などを守ることが信仰のようになっていて、スピリットの面で大事なことが伝わらず、人々が宗教から離れて行っているようにも感じるからである。

 更に具体的に言えば、親が子に毎月、お供えを出しなさいと言う。素直な子であれば、親の言われたことに従うだろう。しかし、反発を持つ子もいるであろう。また素朴にどうして出さなきゃいけないの?と聞く子もいれば、小遣いが減るから嫌だと正直に答える子もいるだろう。私はそれは正直でいいことだと思う。出したくないものを無理強いすれば、関係がややこしくなるだけである。むしろ正直な気持ちを聞かせてくれたという気持ちにもなるが、普通なら親子関係がギクシャクするだけであろう。

 明治時代の教祖が在世の頃は、高弟と言われるような方が、教祖のお話に感銘し、もっと話を聞きたいと通いつめ、なるほどと得心し、それを実践して、周りの人にも話してあげたりしていたわけであるから、本当の信仰が伝わっていたのかとも思える。初代というのはそうなのかとも思う。

明治時代の信仰と現代の信仰

 話を戻すが、どうしてこのような考えに至ったかと言えば、本席飯降伊蔵さんのことが思い出されるからである。教祖中山みきのもとへ通い、教えを聞いて、得心し、それをすぐに実践していたという。自分が大工であることから、教祖のもとへ通う道中、壊れた橋を直したり、みんなのためにと自分の持てる技術を活かし、陰徳を積んでいたという。結局、けっこうな話を聞いたとしても、実践しなければ聞いていないのと同じことである。しかし、実践するには心から得心して、自分が変わらなければ何も変わらないのである。

 インターネットもなく、人々の口伝えだけの時代に教祖の教えというのは、人々が本当に感銘し、これが本当の「道」だと人々に伝えていた時代には「縦の伝道」「横の伝道」もあったのかと思える。なぜなら本物だからである。しかし、時代が変わり、二代真柱の時代にそういったものは書き物からの情報しか残されず、口伝えのものなどは真偽がはっきりせず、取り上げられていないものも数多くあると聞く。確かにあやふやなものや真偽の面ではどうなのかという面もあることには同意するが、本当に伝えるべき大事なことまでも抜けてしまったのではないかとも感じる。
 その結果、理路整然とし、一分の隙もない教典や逸話編などもできたのであろうが、逆にきれいすぎて、何も言えないという面もあるように感じる。

年祭活動といって、本当に神は喜んでいるのだろうか

 三年千日で教祖年祭活動という感じで、どこの大教会でも実践目標などを立て、配布物も増えてきたように思うが、私はおかしいことだと感じている。教祖にお喜びいただこう、実働しよう「おさづけの取次数」「教会参拝数」「戸別訪問」「神名流し」などの「にをいがけ実働数」などを配布されたものに書き込んで提出を促したりということを、いつも十年の年祭ごとの3年前頃にやっている。
 しかし、誰も「おかしい」とは思わないのだろうか?「またか」と思うなら、まだしも「もう勘弁してほしい」と思う人も多いのではないだろうか。更にはそういった統計を取って、部内通信や冊子などに載せるということなどもやるという。これで果たして本当に「教祖にお喜びいただける」のであろうか?喜ぶのは教団の上層部、或いは大教会長だけではないのかとも思う。

 また目標とか達成率とか数値で出すことによって、あの人はがんばっているとか、あの人は何もしてないじゃないかということを浮き彫りにして、却って勇めない種を作ることにつながっていくのではないだろうかとも思える。
 私は教祖が喜ぶのではなく、応法に流れていく長男秀司さんや高弟と言われる人たちを憐れむように何も言わずにご休息所へ引き上げられるような姿が浮かんで仕方がない。

日々の実践が大事ではないだろうか

 結局、何が言いたいのかと言えば、自ら真実を求め、これが本物だと得心したなら、それを迷わず、実践していくことが本当に神に喜んでもらえる道ではないのだろうかと言いたいのである。三年千日だからと特別にするのではなく、普段から人のため、世のため、陰徳を積むような行いを皆が行い、本当に神さんに喜んでもらえるよう日々を通ることが大事であり、それが信仰ではないのかと個人的に思っている。だからこそ、教団挙げての10年ごとに、急に何か動き出すということが、滑稽に思え、違和感も感じるのである。

 こんな話を口頭で誰かに話せば、不謹慎なことを平気で言う奴だと思われることだろう。だが、心の内に秘めていてもしかたがないので、Noteで打ち明けることにした。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。ご感想をいただければ幸いです。


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