見出し画像

ハウスワイフはライター志望(14)ライターとして、生き生きしていたい

「ライターになりたい!
熱い思いひとつを胸に抱えてライターの階段を駆け上がったもり塾塾長・森恵子の再就職奮闘記「ハウスワイフはライター志望」(社会思想社 1992年)を一部編集して連載します。
今回は第14回。失敗によって自信を失い、卑屈な思いに苛まれる日々。でも、このままじゃイヤ! なんとかして本当の自分を取り戻そう……恵子は一歩ずつ前に進みます。

ミニコミ紙をなんとかしたい!

前年秋から友人の紹介で、市内に無料配布するミニコミ紙を手伝っていた。

発行責任者は、前年の市議戦で落選した身体障害者の元市議だった。彼が元学生運動の闘士、革新無所属の元市議と聞いて、私はミニコミ紙を手伝い始めた。

発行責任者が関わる身障者たちの共同作業所に打ち合わせに出向くたびに、彼の仲間とも彼以上に親しくなった。

言いたいことが言えて、雑然としているけれども温かいその場所は、あの秋、かすかに残った私の元気を振りまける場所だった。
元気な振りをしているうちに、いくぶんか本当の元気を取り戻せる場所だった。

年が改まって1月号が出た。
1面記事を見て驚く。
保守系市長のインタビューがある。

タイトルはこんな具合だった。
「新聞記者を夢見て、今は市長」
「ご母堂の足を毎朝、マッサージ」

スジが違うと、私は彼に言う。
こういう提灯記事を書いていては、支持者ががっかりしますよ、と彼に言う。
「あまり片寄った新聞にしたくないから」と、彼は答える。
「保守系市長が1面にこんな記事で載る新聞は、それはそれで片寄ってるんですっ!」
それでも、3月号の1面記事はこんな具合だった。
「新風なるか 保守系新人 東大卒元新聞記者」

疲れる! 
でも疲れてはいられない。
どうして無所属革新の元市議が、このミニコミ紙に衆議院議員選挙の「保守系」新人のこと、こんなにうれしそうに書かなきゃいけないのよ!

この記事から私が読めることは、果たせなかった彼のアコガレ。

一流大学を出て新聞記者になり、保守でも革新でもいいから政界に打って出る——そんなアコガレが見えると、あなたの学生運動は単なる欲求不満のはけ口で、男の子がダダをこねて棒を振り回したにすぎないってことになると思うんだけど。
それってちょっと恥ずかしいとは思わない? 

保守でも革新でも、どっちだって構わない。
とにかく世間にオレを認めさせたかったし、今だってオレはそれをあきらめちゃいないぞ。
そんな気持ちを、こんな形で読者に知られるの、市議に返り咲くつもりならちょっとマズイと思うけど。

私は電話に向かってまなじりを吊り上げる。
「こんな記事を書くようじゃ、次の選挙もおぼつかないと思います。それでもいいんですかっ!」

彼をなんとしても市議に返り咲かせたいわけではなかった。
だけど、ミニコミ紙をなんとかしたい。
なんとか変えたい。
彼を変えなければミニコミ紙の1面は変わらない。
こんな記事が続けばミニコミ紙は1面保守、3面市民派のわけのわからない新聞になる。

そんな新聞って、ない。
こんなミニコミ紙はイヤだとこの仕事をあっさり辞めてしまうには、私はミニコミ紙に入れ込み過ぎていた。

正しいと信じることが言える場所

雑誌の仕事の最中も、仕事を降りたあとはもっと、このミニコミ紙は私にとって大切なものになっていた。

精神障害者や身体障害者のための共同作業所、難病患者のグループ——。いろんな人に会えて、どの人も鼻の奥がつんとなるような話を聞かせてくれる。

商店の人たちは、私が書いた紹介記事を店内に貼ってくれたり、私を笑顔で迎えてくれたりした。

市内に住む原発被曝を追い続ける写真家や、学者やエッセイストにも、間近で熱い話が聞ける。

そんな出会いが毎月3つも4つもあるような仕事が、今の私にはない。

締切りがあって、字数制限があって、そんななかで文章を書きたい。

誰かに読まれるという緊張感の中で私は文章を書きたい。

今の私がライターの範疇に入るかどうか、そんなことはどうでもいい。
とにかくゼロには戻りたくない。
それが私がこのミニコミ紙にこだわったひとつの理由。

それに、きっと私は「正義の味方」をしていたかったのだ。
「それは違う」
「それはおかしい」
「私のどこが間違ってますか!」

家族制度の中で物言う口を極度にふさがれた嫁、
誰もが「仕事」と認める場所で極度に物が言えなかった私。

そんな私が人として、正しいと信じることを述べられる場所が、そこにはあったのだ。

中庸の自信ってむずかしい

「あなたね、初めての仕事先に行くときは自信なさそうな顔をしちゃいけないの」『わいふ』副編集長は、私によくこう言った。

自信! 
私のどこを探せば自信の源があるというのだろう。
私のどこを押せば自信という代物がにじみ出すのだろう。

そんなもの、私にはなかった。
それにわずかなライター歴で自信たっぷりなんて、
詐欺みたいなもんだと思っていた。

「自信たっぷり」ではなく、自然体の「自信」を持ちなさいとアドバイスしてくれているのはわかる。だけど、中庸を知らない私には、どうしてもそれができなかった。

「自信」と「傲慢」は
「謙虚」と「卑屈」同様、
紙一重のアブナイ橋に思えた。

同じアブナイ橋を渡るのなら、
「卑屈」と紙一重の「謙虚」のほうを選ぼうと私は心がけた。
ところが、あの雑誌の失敗で「謙虚」は「卑屈」になだれ込み、
私のプライドはぐずぐずと溶け始めた。1987年暮れのことだった。

そんな私に残された社会は、ミニコミ紙と幼稚園父母会、「地域活動」だった。

3カ月の地域活動は、また私を元気な女にした。
地域の中だけでなく、ライターとしても生き生きしていたい、と思えるようになった。今度こそ中庸の「自信」を持ちながら。

私は成長株のライターよ!

シンの卒園式を終えた次の日の朝から、私はいそいそと新聞を広げる。

求人広告のページを開く。

35歳のフリーライター希望の主婦は、赤鉛筆片手に求人欄を眺める。

見つけた! 
有名出版社のフリーライター募集の広告。

でも……。
自信がない……のばしかけた手をあわててひっこめる。

マーケット・リサーチの求人広告は、来る日も来る日も私の視野に入る。
だけど、もとのモクアミはイヤ。私の赤鉛筆はその欄に近づきもしない。

大きなスペースを持つ、有名出版社とマーケット・リサーチの求人欄を除くと、10行足らずの小さな求人欄ばかりが残った。

それが今の私に似合いの殻だから——。
卑屈な声がどこかでくすぶり、私はあわてて、その声をもみ消す。
体勢を立て直す。

ここから、もう一度始めるのよ。
それで、どこがいけないの。
堂々と胸を張って!

「フリーでライターをしております、森と申します。今日の新聞の求人広告を見てお電話を差し上げました」
トーンをあげた営業用の声で、私は用件を切りだす。

「新聞には詳しく書かれていなかったのですが、そちら様は具体的にはどのような分野のお仕事をしていらっしゃるのでしょうか」

受話器の向こうからムッとした気配が伝わることがある。
私ね、少しは生意気になることにしたんです。

ときには、受話器の向こうでムムッ、ヤルナの気配。
ご推察のとおり、私、成長株のライターだと思いますわよ。

相手の反応を確かめて、婉曲に希望を伝えたりする。
「一般雑誌や単行本のお仕事はしていらっしゃらないんでしょうか」と。

こうして初めての求人広告応募の電話を、私は「自信ありげ」路線で突っ走った。
実績のない私には、中庸の自信というのはなかなかむずかしい。
(次回に続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?