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私の転機となる3つのマイストーリー

●1つ目の転機 
「愛媛のど田舎から京都に出てきて一人暮らしを始める」

高校生までの期間、家事を全くしてこなかった私は全自動洗濯機のスイッチすら押したことがなく、作れる料理といえばカレーだけ。
そんな私が大学進学と同時に京都での一人暮らしをスタートさせることになる。
寮がある大学だったが、両親が私には寮生活は無理だろうと判断し、ワンルームマンションを借りてくれ、一人暮らしがスタートする。
高校はど田舎の超がつくような進学校。アルバイトは禁止だったため、まともな金銭感覚もなかった。
ありがたいことに家電は一人暮らし用の新品セットで一式購入してもらっていたし、入学式のスーツやら化粧品やら、必要なものは全て揃えてもらっていたにも関わらず、入学祝いにと祖父がくれた10万円を一週間で使い果たす。
そんな私でも、どうにかまともに一人暮らしが出来るようになったのはGW中に出会ってすぐ付き合うことになった年上の彼氏のおかげだったのかもしれない。
そもそも夢がなかった私は志望校すら自分で決められず、母が受験校を選抜。大学生活を送るもやはり夢を持つことができず、親も安心するだろうと言う理由で、銀行に就職する。

●2つ目の転機
「イギリスで働くことになる」

大学卒業後、全く就きたい職業がなかった私は腰掛けのつもりで銀行に就職したものの
「こんなに一生懸命働くなら、もっとやりたい仕事をしよう!」
と1年で退職し、職業訓練学校で2D CADを習得。CADオペレーターとして大企業で派遣社員として勤務。働くことへの意欲や姿勢が認められ、3D CADや設計技術を教えてもらうことができ、イギリスで社員として働いてもらえないかと声がかかる。
当時の彼氏とは、子ども嫌いだった私が「この人の子供が欲しい!」と直感で思った電撃的な出会いにより付き合っていた。そんな彼は快く私の背中を押してくれ、送り出してくれた。
渡英後もとにかく一心不乱に働く。
イギリスの田舎町では奥さんから離婚されるのを恐れ、イギリス人は全員定時には退社する。残された日本人が全ての仕事を担うことになるので、全体の0.5割にも満たない10人ほどの日本人は皆、日付が変わるまで働く毎日だった。もちろん私も例外ではない。深夜1時まで働き、翌朝8時には出社する日がザラだった。

そんなに頑張って働いていたにも関わらず、直属の上司からひどいイジメに遭う。

人生初のイジメ。
”ここから落ちたら死ねるかな”
当時住んでいたアパートの窓からは海が見えた。その海を見ながらそう考えてしまったくらい辛かった。
しかし、やはり私は守られていた。決して小さい会社ではなかったのに、社長や副社長が私を気にかけてくれ、休日に色々なところに連れて行ってくれた。
せっかくイギリスに居るのだから、と旅行好きな私はロンドンはもちろん、フランス、スペインなど近郊の国々を旅行したりもした。
そんな中、会社が倒産することになり、1年半で帰国。

●3つ目の転機
「不妊からの育児」

帰国後は受けた会社のほとんど全てに内定をいただく。
帰国するのを待っていてくれた彼と結婚を控えていた私の会社選びの決め手は、福利厚生の充実。
とは言え、結婚後も「もっと仕事したい!」と言う熱は冷めず、子どもについてはすぐには考えられなかったが、姪っ子が可愛すぎて、「やはり自分の子どもが欲しい!」と思い切って妊活を始める。
1年、2年……何かおかしい。病院に行くが原因不明。5年…。さすがに自力では無理だと断念し、彼に原因はなかったので、これで無理なら別れよう!と体外受精に踏み切るが、スタートラインに立つための血液検査でNG判定。どん底に落とされた気分になった。
今までどんなことも努力でカバー出来てきた。今回ばかりは努力では叶わないのではないか……しかし、諦め切れない私は、自分自身の身体という基盤を整えるため、食について勉強したり、横浜まで漢方医に会いにいき、漢方薬を処方してもらったり……とにかく思いつく限りのありとあらゆる手段を試した……にも関わらずNG判定。
同じ不妊から無事出産した友人に連絡し、話を聞いて欲しい、とお願いする。友人は快く受け入れてくれた。

「妊娠だけではなく、子育ても自分の努力ではどうにもならないことだらけだよ」

パーン!と私の中で何かが弾けた!
「そうか!!子どもを育てると言うことはそう言うことなんだ!」
それを教えられた私は一気に気分が好転。翌月の血液検査で無事合格。ありがたいことにその後はとんとん拍子に進み、元気な女の子を授かることができた。

そんな私の妊娠中の一番の不安は「ママ友はできないだろうな」と言うことだった。
決して大人数で集まるのは好きではなかったが、心を許せるママ友が一人でいいから居てくれたらいいな、そんな想いがあった。しかし、学生時代から男友達の方が多く、就職してからは男の人の方が圧倒的に多い職場で働いてきた私は、どこか女性に抵抗があった。「ママ友」と言うワードにいいイメージもなかったし、住んでいる地域には一人も友人がいなかった。
しかし、生まれてきてくれた娘はたくさんのご縁を運んできてくれた。
娘が5ヶ月くらいの頃にはママ会を作り、近所のママと月齢の近い赤ちゃんの会を毎週定期開催。延べ20組以上の親子が集まった。
8ヶ月頃には友人のヨガの先生に来てもらい、ママが赤ちゃん連れで参加できるヨガ教室を開催。
復職前1歳のお誕生日会は親子16組集まって、プロのカメラマンさんに来てもらったり、完全オーダーメイドのケーキを発注したり、みんなで手作りの飾り付けをしたり。すごく盛大なパーティーを開催することができた。

一人目の時は何年もかかった妊娠。二人目は一瞬だった。7ヶ月ほどで再度産休に入る。が、子どもを二人育てるハードルの高さに直面する。
主人は毎晩深夜帰りだったので、1歳9ヶ月差の二人の子ども達を一人で育てるのは簡単ではなく、二人同時に抱っことおんぶでお昼寝させるのは日常茶飯事、二人同時に理由がわからない大泣きをされ、私も一緒に泣いてしまう日もあった。しかし、温かい友人達に囲まれていたおかげで、深く沈むことなく育児に勤しむことができた。
2回目の復職後、上の子が3歳の時には保育園児が行ける英語教室が近所になかったので、幼い頃から外国人に抵抗がないようにしておきたいと言う気持ちがあり、外国人の講師に来てもらい英語教室を開講。友人だけで4クラス編成できるほど集まった。
そのまた2年後には新体操の先生に来てもらい新体操教室を開講。マンション内で一般募集をし、20人弱で無事開講。3年後の今は選手コースに行く子まで出るほどになった。

この経験を生かし、今の私に何ができるのだろうか。毎日自分に問いかける。明確な答えに辿りつく日が楽しみで仕方ない。きっと今まで以上にたくさんの方々と人生を高め合っていけるに違いない。


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