森川 哲好

森川 哲好

最近の記事

3月24日(2012年) パブリックビューイング

この日は朝から戸田の明治乳業で洗浄ポンプの定期メンテナンスに現場監督として立ち会って、それからレッズOBのウッチーがゲストで来ていることもあり、さいたまスーパーアリーナのパブリックビューイングで参戦してました。 前半は1-1。ハーフタイムにウッチーが「先制されたけど出会い頭の事故みたいなもの。崩されたわけでは無いので、問題は無いと思います。前半のうちに、しかも前半終了間際に追いついたので、後半はいい流れで入れるのではないか。逆転できると思います。」とのコメント。そのコメント

    • 3月23日(2014年) 無観客試合

      この日はロッソさんを始め、サポーター仲間と浦和の「ちきん亭」を貸切って、試合をみんなで見ました。 我々サポーターは援軍でなければならないのに、選手を後押しする立場なのに、小野伸二はインタビューで浦和レッズサポーターを「チームメイト」と即答してくれたのに、選手の足を引っ張るか形になってしまったのが悔しかった。 テレビから流れてくる映像は、J1の公式戦なのに、サポーターがいない。当然、サポーターの声、手拍子が一切ない。まるで大原で見る練習試合のようだった。いや、大原の練習試合

      • 3月22日(1995年) 鮮やかなデカ旗

        以前にも書きましたが、競技スキーの練習中に首を捻挫してレッズの試合に参戦するどころでは無かったこの時期。テレ玉で見たのか、レッズのゴール裏に白のデカ旗が鮮やかに広がったのを見て、家族で感嘆の声をあげた記憶があります。 この当時はロッソさんと知り合いではありませんでしたが、あれを手作りしてしまうなんて「浦和のサポーター凄いな!」と思いました。のちにロッソさんと知り合って、ビジュアルサポートのお手伝いをするようになって、デカ旗の誕生秘話を伺って更に感動!シーズンオフなど試合のな

        • 3月21日(2007年) 初めてのアジアのアウェイ

          初めてのアジアのアウェイの闘いがオセアニア・・・ まあ、オーストラリアがAFCへ加入したのだから仕方ありません(笑) 私は後援会のツアーで参加しました。当時はサラリーマンだったので休みがとれるかが大問題。後援会のツアーが発表されたときに、20日の夜の便で成田を発ち、春分の日の21日がマッチデー、シドニーに1泊して翌22日の朝の飛行機でシドニーを発ち、その日の夜には成田に着いて、自宅に戻れるという強行弾丸ツアーがありました!これなら20日を直帰にして、22日一日だけ有休を取

        3月24日(2012年) パブリックビューイング

          3月20日(1996年) 住専国会

          1996年の3月は就活の準備を進めつつ、大学時代、スタッフとして働いていた衆議院議員の事務所で仕事をしていて、遠いアウェイはまだ参戦してませんでした。丁度、住専国会の最中で、この日は私が仕えていた先生の選挙区での住専処理についての時局講演会と被ってました。 試合は気にはなっていましたが、今のようにタイムリーで情報を得ることができず、疲れて深夜に自宅に帰宅してから家族から、ヒロさんの2ゴールで勝利したことを知りました。

          3月20日(1996年) 住専国会

          3月19日(1997年) 初海外旅行から帰国

          1997年3月19日は大学の友人とヨーロッパへ卒業旅行にいって帰国した次の日でした。そして、4月1日から就職で、社会人としてスタートする年でもありました。福岡本社の会社で、しかも当時は4月1日から5月31日まで2ヶ月間、ホテル暮らしでみっちり研修をするカリキュラムでした。ですので当日は、就職&研修に向けた準備やヨーロッパ土産をもって親戚への挨拶回りやらで、アウェイ参戦どころでは無かった記憶があります。 この年のナビスコカップは3月末のホーム駒場の試合の1試合しか参戦出来なか

          3月19日(1997年) 初海外旅行から帰国

          3月18日(1995年) 首の捻挫

          当時は、大学の2年生から3年生になる年でした。大学では体育会の競技スキー部に在籍してました。1995年の2月上旬の合宿で大転倒しました。練習中に転んだ場合は、コース上に雪の塊ができて危険なので、転んだ本人が整地してから練習を再開することになってましたが、前を滑走した人がそのルールを破っていたのです。何も知らずに滑ってきた私は、スキー板が雪の塊に突っ込んでしまい急ブレーキ。体はそのままスピードが落ちず、前のめりになる格好で頭からゲレンデにたたきつけられました。仲間が声を掛けに来

          3月18日(1995年) 首の捻挫

          3月17日(2001年) 思い出して怒りがこみ上げた

          この日は、西のゴール裏で参戦してました。 元レッズの大柴に2点目を決められて頭を抱えて後ろを見たとき、一番後ろにいてニヤニヤ笑っている男に気付いたのです。そいつはジャンパーの前を空けて、セレッソのレプリカを見せつけていました。今だったらあり得ない光景です。埼スタの南ゴール裏でも相手チームのレプリカを着ていたら強制排除されるか、袋叩きにあうかのどちらかでしょう。その時は潜り込まれていました。当然、ウチのグループのメンバーも周りのレッズサポーターも気付いて殺意のある目線を送って

          3月17日(2001年) 思い出して怒りがこみ上げた

          3月16日(1996年) ゴール裏デビュー!

          初めてのゴール裏、と言っても西側でしたが、デビューしたのがこの試合でした。実は93年と94年はチケットが取れず1試合も参戦出来ず、95年から少しずつ指定席のチケットが入手出来て参戦し始めました。 デカ旗と紙テープのビジュアルは覚えてます。初めてリアルで見て、感動した記憶があります。まだこの時はロッソさんのメンバーのことも知らず、準備の手伝いもしてませんでした。 試合も2-1で勝利して、更にハマり込んでいきたかったのですが、この年は大学の最終学年で就活。結局思うように参戦出

          3月16日(1996年) ゴール裏デビュー!

          3月15日(2014年) 参戦出来ないもどかしさ

          「JAPANESE ONLY」事件後、最初の試合、アウェイ広島戦。Jリーグからホームゲームの1試合無観客試合の制裁が発表され、クラブも自主的に、断幕、ゲーフラ、Lフラなどの旗類、幕類等の掲出するアイテムの使用を一切禁止した。 そんな中の大切な試合なのに、会社の慰安旅行で参戦出来ない。もどかしくて、何とか参戦出来ないかと所長に慰安旅行不参加を頼み込んだが、「全員参加が原則」と却下された。 秋田県の角館や田沢湖などの観光だったが、気が気じゃない。携帯電話を駆使してあらゆる情報

          3月15日(2014年) 参戦出来ないもどかしさ

          3月14日(2015年) 有言実行に痺れた

          阿部ちゃんの有言実行に痺れた。しかも目の前のゴールに突き刺してくれたのだから、ゴール裏は歓喜の渦なんてものじゃなかった。もう大騒ぎ(笑) 山形のGKは元浦和のギシ。埼スタでの浦和との対戦で燃えているのは間違いない。しかも、前年の入れ替え戦で「山の神」と呼ばれる活躍。(個人的には山の神というと、母校の箱根駅伝5区、柏原です。)なんか彼のパワーにやられるのではと嫌な感じもしてました。 そんな中で決まった阿部ちゃんの決勝ゴール。 浦和の漢、浦和のレジェンドです。

          3月14日(2015年) 有言実行に痺れた

          3月13日(1999年) 初引き分け

          1999年は福山営業所勤務中だったので、毎週のようにレッズの試合で関東に出向くことはできませんでした。ただ当時の所長が理解があって、私が担当だった日本鋼管(現JFEスチール)の東京本社への月1回の訪問を土日絡めた金曜日か月曜日に訪問してよいということになり、月1回は必ずレッズのホームゲームに会社のお金で参戦できるようになってました(笑) この日は関東のアウェイ試合だったので不参戦。テレビ中継があったのか覚えてませんが、初の引き分け試合になってしまったと苦笑した記憶があります

          3月13日(1999年) 初引き分け

          3月12日(2005年) 舐めたらアカン

          2005年は、千葉県の君津営業所だったので、アクアラインを渡って参戦したと思います。 川崎がJ2上がりのチームだからと心の奥底では舐めていたと思います。大量点を取って粉砕してやると。 スコアを1-3にされたときは焦りました。「こんなはずじゃなかった・・・」と。 最後の最後、試合終了間際に闘莉王のゴールでどうにかドローに持ち込みましたが、「アウェイで負けなくて良かった。引き分けで追われて良かった。」と言いながらも、なんだかモヤモヤしていた記憶があります。 今でこそ「相手

          3月12日(2005年) 舐めたらアカン

          3月11日(2000年) 全勝優勝しかない

          屈辱のJ2開幕戦。当然全勝優勝でどの試合も3-0以上のスコアで勝たなければ意味が無いと、今思えば、驕りたかぶっていて、ナメまくってました。 この試合には勝ったけど、まさかその後、苦行ともいえる厳しいJ2の戦いになるとは思いませんでした。絶対にJ2降格だけは繰り返してはいけません。 そして3月11日と言えば、2011年に触れずにはいられません。当時、サラリーマンでその日は埼玉営業所の歓送迎会の日でした。歓送迎会の準備もあるので午前中で営業の外回りを切り上げ、午後は北本市の事

          3月11日(2000年) 全勝優勝しかない

          3月10日(2001年) J1復帰即優勝

          1年でJ1復帰し、即J1優勝だ!と鼻息荒く(笑)開幕を迎えました。 開幕戦はアウェイの名古屋。いつもの瑞穂競技場ではなく、瑞穂球技場。たしか、記憶が正しければ翌日が名古屋国際女子マラソンで瑞穂競技場を使用するので球技場があてがわれたとのこと。 試合前の並びの列の脇に「赤鯱軍団」の幟が何本も立っていて、皆で「偽赤のくせに何が赤鯱軍団だ!」とか難癖をつけて、盛り上がっていたのが懐かしい。 試合の内容はあまり覚えてないのだが、負けてしまったのと、スタジアムが狭かったのと、真後

          3月10日(2001年) J1復帰即優勝

          3月9日(2019年) GO WEST

          この日は西に向かったけど新宿駅から中央本線の「特急あずさ号」ではなく、東京駅から東海道新幹線の「ひかり号」。翌10日までの日程で行政書士になってから参加していた「行政書士経営セミナー」の浜名湖合宿に参加してました。 試合結果を知ったのはセミナーの休憩中に浦和レッズからの試合結果のお知らせのメール。でも試合内容はわからず、ただ慎三のゴールで勝ったのだとだけ分かりました。 夜も懇親会やらでスポーツニュースも見れず、実際に映像を見たのは日曜日の夜、自宅に帰ってから見たダゾーンの

          3月9日(2019年) GO WEST