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奪われるな 砕かれろ

人生の終わりの時に望むものはとてもシンプルだ。「好きな人に会うこと」「好きな食べ物を食べること」
「私・家族の命」と「集団の命」を考える時、どちらに重きを置くかはその人次第で他の人が決める権利はない。ただ、俺の人生を振り返っても今ほど「集団の命」がクローズアップされていることはない。他者の気持ちを考えなさいという教育を受けてきたし、みんなもそう信じてきたと思う。はっきり言って、自分が我慢すれば他者の負担や哀しみが軽減することはない。そう刷り込まれてきた、だってその方が管理しやすいから。決まっていることの方が楽だ。ただ、そちら側は奪われることが多い。

砕かれたい

いつもそう思っている。気づいたら頑なになっている。
奪われるいうことと砕かれることは自分が変化するという面では同じだが全く意味合いが異なる。奪われると減るが、砕かれても減らない。「身を粉にして働く」という企業献身みたいな言葉があるが、これは砕かれた状態だろう。粉であれば再構築できる。

俺は固体か?液体か?気体か?

他の人の気持ちはわからない。国はいざという時ほど助けてはくれない。
14年前であれば、「私・家族の命」一択だった。これを免罪符にすれば、様々なものをかわすことができた。
今は「集団の命」が免罪符になっている。大切な人の最期を受け止めることができるのだろうか。

奪われるな 砕かれろ

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