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だるま氏、京都をやや都市論的にさまよう|京都ぽんぽこ日記②

こんにちは、だるまです。都市を学ぶ大学生らしく、京都という都市について考えながらさまよいました。

旅行中に思索にふけったのは初めてであり、その原因は旅の前に鷲田清一の『京都の平熱』と小山薫堂の『ライカと歩く京都』を読んだからです。

都市哲学もどきの番外編として、「都市論的」に考えたことをつらつら述べようと思います。


観光と聖地巡礼

観光とは、イメージの再確認である、とよく言われる。
いわゆる京都「らしさ」を求めて、私たちは京都を目指す。
着物を着て、産寧坂を歩いて、演者の一人となって観光都市京都を支えている。

しかし、今回の旅行の目的は聖地巡礼だった。
聖地巡礼と観光は似て非なるものだと思う。

観光がイメージの確認ならば、聖地巡礼はイメージの構築である。世界観の構築である。
再び物語に戻ったときに、都市で結んだ実像は鮮明な印象をもたらす。

今回、修学旅行で行く所を見事に避けたために、別の顔をした京都に出逢えた気がした。ただしそれさえも、京都の本当の顔でない事を心に刻んでおかなければならない。

自転車と歩行

一日は自転車でまわった。
京都の所謂「観光地」は自転車で走ってはいけない。

自転車だと、その速度に焦る。
歩いていると自然と落ち着いてくる。京都は歩く街だと思った。

その一方で、自転車を快適にこぐために自然と地元の人が使う道に辿り着く。「観光」を求めない旅をしたかったので気分が良い。
京都の北は自転車で回るのが良い。

京都と東京

この二つの都市はどこかでつながっているような気がした。
他の観光都市から帰還した時のように、東京の喧騒や密度に驚いたりしなかった。

都であった(である)誇りがあるからか、東大と京大という象牙の塔があるからか、発展した観光都市だからか、都市の安定感があり寂しさを感じなかった。

ごみごみしているのがあまり変わらないからだろうか。

もちろん、違いはたくさんあった。

槇文彦の言う「奥」は、京都のいたるところにある町屋で如実に感じられた。町屋建築を語りたくなる気持ちが分かる、奥ゆかしさだった。

住所表示も異なる。日本は欧米と異なり、番地と号で面的にその場所を示す。欧米は通りに依拠した住所表示をしている。

そんな日本の中で、京都は「〇〇下る」や「△△入る」など通りを基準にした住所表示をしている。
京都のように、道路が格子状になっている都市では何事も通りを基準にした方が考えやすいだろう。


かしこ


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