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ピンクのスーツケース1つで家を出てきた彼女はまだ21歳だった

 傷ついた彼女の心を慰めてくれる人は彼女の周りにはいなかった。

 大企業の重役である父もその妻である母も、生真面目で優秀な妹も彼女を責め立てた。高級住宅街に建つ彼女の家には彼女の居場所は無かった。

 家に居たくなかった彼女は頻繁に僕と会うようになっていた。

 プレイタウンである吉祥寺で風変わりなバンドの仲間達に彼女も加わってバンドの練習をしたり飲み歩いたりして大学生生活を謳歌した。

 彼女は短大を卒業して大手レコード会社に就職した。僕はthird(3年生)になり、専攻を哲学に、そしてサブを美術史に決めた。

 当時、外タレブームで、海外からミュージシャンが来日すると、バイリンガルの彼女が通訳としてメディアで活躍するようになっていた。

 ミュージシャンのプライベートの時間には当時の音楽に詳しい大学生の僕も呼ばれて彼女を手伝った。

 失恋の痛手も薄れかけていた頃、仕事関係の男が彼女に近づいてきた。離婚経験のある派手な感じの40代のデザイナーだった。

 社会人になって間もない彼女は、まだ21歳の若さだった。 

 バイクが趣味だったらしいその男はタンデムでツーリングでもしないかと彼女の名前の入ったメットまで用意して彼女に言い寄った。

 彼女の心は学生の僕と離婚経験のある中年の男の間で揺れ動いていたようだった。次第にまた塞ぎ込む様になっていた。

 レコード会社勤務という彼女の仕事を彼女の両親はあまり評価していなかった。良い結婚でもした方が良いと思っていた。

 そんな折、そのデザイナーは彼女に結婚を前提に付き合いたいと両親に会いに行った。

 決断できない彼女は苦しんだ。いっそ結婚した方が両親との軋轢が取れて楽になるかと。

 将来どうなるかも分からない大学生の僕との付き合いはあまり良く思われていなかった。

 僕が実家に帰っている時に彼女から電話があった。

 「今から行ってもいい?」

 彼女は家を出てきた。ピンクのスーツケース1つだけを持って。

 

 

 

 

 

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