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普通は障壁だ!まず自分の中の多様性を認めることから始めよう

東京オリ・パラリンピックが決まってから
東京オリ・パラリンピックが終わった今も
そしてこの先も
多様性を認め合うことが推し進められています。


でも、多様性を認めるってどうすればよいのか?

そう思った方もいるのでは。


突然、「多様性を認めよう」
と声高らかに言われても戸惑いませんか?


その言葉だけが報道やネットで先走って、
「何だかわからない」と思っている人の方も多いと思います。


わかりづらいことは、受け入れがたいのではないでしょうか?


だいぶ前に
ユヴァル・ノア・ハラリさんの
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』を読んで


私がずっと思っていた「普通」について
感じていたことがようやくまとまったので文字にしました。

サピエンス全史を読みながら、
人間は多様なのに「普通」とそれ以外を区別することについて、
私が思っていたことがしっかり形になっていきました。


私が思う「普通」についてなので、
不快に思われた方がいらっしゃったならすみません。



🔵普通という障壁


私自身、「多様性」という価値観をしっかりと認識したのが
10年ほど前に障がい者雇用支援の職に就いてからです。


初めて心から人は「多様」で
その「多様」は
誰もが認められて生きて良いものだと悟りました。


でも、これって、きっと、
誰もが薄々わかっています。


世界中には色々な人種や民族がいること
日本の中にも色々な人種や民族がいること
その中にも色々な人がいること
人は一人として同じ人はいないこと
その人々が共存している日常であること


私も頭ではわかっていました。

理屈は理解していました。

でも、
自分自身が納得いくまで
心底わかっていませんでした。


それは、
普通と違う状態にあることを
自分の中でどう受け入れるか
という障壁があったからです。


子どもの頃から
親や先生など躾・教育・指導をする人たちから
「普通はこうする」
「普通は〇〇だ」
という言葉を聞いて育ち、
普通であることに人の価値の照準が定まっていました。


雇用支援の職に就いた時、
一番困ったのは、この価値の照準をどこにおくか
でした。


今までは

大勢の人と同じが良い
クラスのみんなと同じが良い
周りと合わせられる人が良い

そうできることに
価値がありました。


だけど、この仕事は、
これまで、自分が見聞きしてきた
「普通」という価値はない


では、
価値の照準をどこにおくか。


それを考えるにはどうしたらよいのか…


色々悩んで…

その手掛かりとして
まず「普通とは」何かを考えてみました。


🔵普通の基準とは?


「普通は〇〇だ」

って言ってる人
その普通の基準は何ですか?



「普通は・・・」

この出だしで喋ることって
誰でもあると思います。



「普通は〇〇」

ってよく聞きますよね。


私も夫や同僚と話している時に
今もつい言ってしまいます。

一般的な事例を語る時に
語彙力のなさで
便利に使ってしまいます。


そして、言った後によく思うんです。


「普通は〇〇」


その普通の基準って何だ?


そして

「この普通って何だろうね?」

そう言って一緒に考えたりします。



「普通は〇〇」

そう思う時、そう言う時

普通の基準を考えていますか?


私は、

「普通は〇〇」

そう口走った瞬間は、その基準は考えていません。

むしろ

これが基準だ!

という明確なものなんてありません。


ただ自分の感覚で

そして話している相手の感覚を確かめながら

「普通は〇〇」

と言っています。


考えてみると、
その時の空気感や同調の感覚の中で

「普通は〇〇」

と発している機会が多いことに気づきました。


だから、発言を振り返って

「この普通って何だろうね?」

確認する作業をします。


そうすると
面白いことに、
それぞれの普通が出てきます。


人は人それぞれなのですから、
当然と言えば当然。


お互いの
普通の感覚を聞き合って

「へぇー」

って感心し合っています。


では普通に基準はあるのでしょうか?


例えば、

データで基準値が示されている事柄については
基準値を元にして
「基準は〇〇」
と言えると思います。

基準が普通に置き換えられて、
「普通は〇〇」
と言われることもあります。


でも、データがないものに関しては
基準値がないので
普通とする基準は
人それぞれの感覚や慣習・風習などになります。


感覚・慣習・風習などに頼るものであれば、
話している相手や仲間との空気感や同調で
普通の基準が作られていきます。


会話をしている時は、
データを元にした話でない限りは
ほぼ、後者の方が多いでしょう。


🔵なぜ普通を語るのか


では、

「普通は〇〇」

こうやって普通を語るのは何故なんでしょう?


やはり、私自身の経験で思い返してみても

まず、普通であることとは、

大勢の人と同じが良い
クラスのみんなと同じが良い
周りと合わせられる人が良い

というように、
集団の中で足並みを合わせられることに重きを置いています。


歴史を見てみると

集団の中で足並みを合わせられることに重きを置くのは、
太古に人間が集団で暮らすようになってから
集団の中の秩序・正義や安心を得るためだと言われています。


大数の中に存在している
仲間と同じ枠で共存している

という安心感は
厳しい環境で暮らす太古の人類には格別なんだろうと想像できます。


それが脈々と続き
集団の中での決まり事などが常態化し、
慣習・風習になり、文化になり
仲間と確認し合う


そのことで、

自分の存在を確かめる

枠からはみ出していないことを確かめる

そして自分たちは秩序の中で正義だと安心するのです。


それが正常であり、標準や普通という概念になったようです。


普通の概念は太古からの時代ごとに色々な基準があったと考えられます。

そういった基準は集団を守るために大切にしていたため、
他所から来た者や少数派に対しては特異で厳しい目が向けられてきました。


だからこそ
普通を語るのは

集団の中ではみ出ていない
仲間外れではない
規格外ではない

という安心感を得るために必要なことなのだと思いました。



🔵普通は排除を生む


集団の中ではみ出ていない
仲間外れではない
規格外ではない

という安心感

これは、人だけでなく、物にも浸透していきます。


工場で作られた製品であれば、
データに基づいた製品が良品で正解です。
そうでなければ、欠陥品です。

この考え方が、社会に浸透していくようになります。


そして、自然に左右される農作物まで
形や大きさに普通の基準が作られ、
基準に満たない物は価値がないとされて
選別されていきます。


近年は、そういった基準も見直されていますが、
消費者の安心のために、
選別された良品以外は全く許されない時代がありました。


選別するということは排除するということです。

普通という標準の基準は排除を生みます。


排除は安心を生み出しますが、
それと同時に
排除は不安を作ります。


普通を追い求めた結果
使えるものも
食べられるものも
能力のある人も
排除されています。


標準が良品だという認識が浸透し、
標準以外は不良品となってしまいました。


私自身、
親や学校の先生から見て標準良品ではなく
不良品だったのでしょっちゅう叱られていました。


親の言うことを聞くことが良い子
先生の言うことを聞くことが良い子

からすっかり外れて、
親や先生に意見をして
いつも「素直じゃない」と言われていました。

「何で、はいわかりました、って言えないの?」

そう言われてました。

自分に素直だと、人には素直じゃないと言われる

「素直」とは
黙って人の言うことを聞くことだ
そう思っていました。


高校を卒業するまでは
これが私の「素直」の普通になっていました。


🔵普通の価値は常に変わる


この普通は永久的なものではありません。


普通の価値は常に変わっています。


私の「素直」の普通の価値が変わったように、
何かをきっかけに変わっていきます。


製品などは、データを基に作られています。

こういった製品になるものについては基準が必要です。
でも、研究や技術開発によって基準は変わっていきます。
それに伴って、普通の価値も変わってきます。


法律も基準に則って作られています。

でも、これも時代によって、政権によって
変わっているのが歴史でわかります。


文化・感覚・慣習・風習なども
時代や人によって変わっていきます。


医療や教育なども
時代や研究、科学の発展によって変わっていきます。


人も
育った地域、育った時代、
育った環境、関わる人によって変わっていきます。


そして世界はAIやロボットとの共存になっていきます。
AIやロボットにお世話になるのが普通の時代です。


最近読んだのですが、
AIとロボットとの共存が人類をさらに進化させることを痛感した本です。

ピーター・スコット・モーガンさんの
『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン 究極の自由を得る未来』

イギリスのロボット科学者であるピーター・スコット-モーガン博士は、全身が動かなくなる難病ALSで余命2年を宣告されたことを機に、人類で初めて「AIと融合」し、サイボーグとして生きる未来を選んだ。
『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン 究極の自由を得る未来』出版社より



自分が知っている普通は普通じゃない


世の中の普通の価値はどんどん変わるのです。


そして、この価値を変えているのは
大勢の人ではなく、視点が違う現状の普通の価値を疑問に持つ人達です。


視点が違う現状の普通の価値を疑問に持つ人たちは少数です。


集団の安心感の中でどっぷり浸かって、
誰かと違う誰かを非難する間もなく、
未来をみて、
現状の普通の価値に疑問を持ち、
課題を見つけて、
発展に向かっていく人たちです。


歴史上
こういった人たちが
普通の価値を変えていっています。


🔵少数派は誰でも持っている


普通の対義語を辞書で引くと



希少:極めて少なく、普段は目にする機会がないさま
特別:他の多くと際立って異なる部分があるさま
異常:普段一般と異なるさま
奇抜:普通でない要素があるさま


weblio対義語・反対語辞書より


上の対義語の意味だけ見ると若干ネガティブにも感じられますが、
これらの言葉には良い意味もあります。



希少:きわめてまれなこと。少なくて珍しいこと。
特別:他との間に、はっきりした区別があること。格別。
異常:並外れていること。
奇抜:ひときわ優れていること。

webli辞書より


こうした
希少・特別・異常・奇抜な物や人は
少数派です。


少数派の物や人は
大勢の中にいたら
埋もれて紛れて消されてしまいがちな存在でした。


「普通は正義である」と安心感を求める
大勢の集団が
少数派を潰していく


だけど、
その普通だと思っている概念は、
自分の中で正義で安心だと考える事象です。

それに同意してくれる誰かがいるから、
「普通は〇〇」 と安心していられて、
やっぱり正義なんだと思えるのです。


だとすると、
多様性を認める現代社会では、
多様性が社会の普通になり、
どうやっても多様性を認められない人たちは
徐々に少数派へと移行していくことになるのでしょうか?


私は、それは現時点では難しいと感じています。


冒頭に書いた通り、
実際では
親や先生など躾・教育・指導をする人たちから
「普通は〇〇」
という普通=標準であることを求められ続けています。


家庭教育、学校教育が変わらない限り難しいのです。


だから
大多数の人は

希少・特別・異常・奇抜
はダメ

そう思っています。


この普通の呪縛を解くのは相当困難です。


ただ一つ、言えるのは

普通に囚われている大多数の人の中にも

必ず

希少・特別・異常・奇抜

な部分があるということです。


何かを創り出す時は
この
希少・特別・異常・奇抜
が必ず創り出すのです。


希少・特別・異常・奇抜であることは
大勢の集団に
何かを考えさせ、
何かを生み出し、
何かを動かし、
何かを与える、
そのための存在なのです。


人は誰一人同じ人はいません。
誰しもが
誰かと違う
希少・特別・異常・奇抜な面を持ち合わせています。


だけど、
普通の安心を得たい
大勢の集団にいたい人からすると
それは認めたくない事実だと思います。


普通という基準から外れたくない
しがみついていたい
目を背けたい
認識したくない



自分のその思いを認めて受け入れることが
多様性の時代を生きる一歩になります。


🔵自分の中の多様性を認めよう


多様性を推し進めている社会であることは
集団の中の
普通であることの価値が
これから段々と薄らいでいく時代に来ています。

恐れないでいいのだ、と気づくことができます。


あなたの基準は何ですか?

「普通」ではなく、
自分自身の基準です。


普通を語らないで
自分を語る


普通を語らないで
その物自体を語る


まず自分の中の
自分が普通とは違うと思える
多様性を認めることから
はじめましょう

そして、その多様性は価値あることだと自覚するのです。

自分の中の多様性を認めることで、
他人の中にも多様性があることがわかります。

人は一人として同じ人はいないことを納得すると、
考えや行動が違っても、
それは人それぞれの価値や基準が違うからだ
と認めることができます。


それが
お互いを価値ある存在として認める一歩となります。


こうして、
私の価値の照準も定まっていきました。


普通であるという価値はない
普通という言葉に確かな基準はない
誰もが自分の普通を持っていて、それはみんな違う

そして、
価値の視野も視点も広がりました。


自分の価値観で他人を判断せず、傷つけず
自分の価値観で物事を判断せず、意見を広く聞き、受け入れる
自分との違いを知り、その違いに受け入れる糸口を見つける


私が自分の「素直」を見つけた時、
親や先生が言う「普通」の素直ではないけど
とても誇らしかったのです!


多様性を認める社会に戸惑っている人たち!

まずは自分の中の多様性を認めていきましょう!


○私の記事に時間をとって最後まで読んでくださり、
 ありがとうござました!
 とってもうれしいです。大感謝です!!








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