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『幻のレコード』もうひとつの章

 『幻のレコード 検閲と発禁の「昭和」』は基本的に描き下ろした原稿を出版時にところどころ削除したり逆に増補したりして一冊に形成していったのですが、その過程でまるまる一章分削除したりもしました。いちおう材料を集めて章立てして書いたのですが、レコード検閲の本として一冊にまとめるに当たり、ひとつは文字数超過のため、もうひとつはやや趣旨から外れるテーマのためエイヤッと削ったのです。
 その判断は間違っていなかったと思います。この章を活かしていたらレコード検閲に関する歴史の記述はタイトさを失ったことでしょう。
 しかしラジオ放送に対する逓信省の検閲と内務省との軋轢や泣く泣くボツにした丸山鐵雄作詞の時事歌謡はそれはそれで面白い素材であり、このまま捨て去るのも惜しいのでここに公開することにしました。ちなみに丸山鐵雄作詞の「分からない節」は風刺色がきわめて強く、本書のクライマックスである「タリナイ・ソング」を彷彿とさせますがその風刺に対する処遇が天と地くらい異なるのも見どころです。

Ⅱ ラジオ放送の検閲

「東京行進曲事件」


 「籠の鳥」の禁止は昭和期まで人々の記憶に残ったものらしく、東京朝日新聞の読者が投稿する「鉄箒」欄では「かつて警視庁では『かごの鳥』といふうたを禁じたやうにおぼえてゐる。」(一九二九年七月二十五日)という回顧がみられる。大正期の「籠の鳥」禁止が昭和初期に取り沙汰されたのは、一九二九(昭和四)年六月十五日にラジオ放送が予定されていながら前日に逓信省の指導で放送差し止めとなった映画主題歌「東京行進曲」(西條八十=作詞、中山晋平=作曲)を念頭に置いてのことであった。レコード検閲に入る前に、同じ音声を扱うメディアとしてラジオでの放送禁止事情を覗いてみよう。
 
  一九二五年に東京(JOAK)、大阪(JOBK)、名古屋(JOCK)と順次放送が開始されたラジオ放送は、逓信省の管轄下にあった。昭和初期にはまだレコードに対する規制はなく、レコード業界は野放し状態であったが、ラジオ放送は逓信省の監督下で厳しく統制された。当時は事前に収録した音源を放送に使うということはまれで、ほぼ全てが生放送である。家庭の日常生活のなかで流れる放送なので、その内容は慎重すぎるほど吟味された。放送番組は台本を逓信省が検閲し、内容が放送禁止事項に触れる場合は事前に放送を差し止めることができたのである。
放送禁止事項とは、安寧秩序ヲ害シ又ハ風俗ヲ紊ス事項、外交又ハ軍事ノ機密ニ関スル事項、などで、基本的には「新聞紙法」「出版法」に準じていた。また日本放送協会が運営する公共放送という性質上、政治に関する講演論議、広告放送も規制された。これに抵触した場合、逓信省の係官は放送中でも電源を遮断する権限を有している。 市販のレコードで流行っている歌でも、放送に適さない流行歌は放送許可が降りない。たとえば大正期に局地的に禁止された「ゴンドラの唄」は昭和期に入ってもラジオ放送では流れなかった。だがその判断は恣意的なものであったらしく、東京放送局(JOAK)では「君恋し」や「アラビアの唄」は放送から外されたが、大阪放送局(JOBK)ではお構いなしに放送していた。おなじJOAKでも昭和十年代にはこの縛りはなくなったのか、一九三五年三月二十五日午後八時三十分の「想ひ出のジャズ」では二村定一が「アラビアの唄」を歌っている。その時その場での雰囲気によって左右されていた、という印象は否めない。
「東京行進曲」の場合は〽シネマ見ましょかお茶飲みましょか いっそ小田急で逃げましょか というくだりが、「真面目な子女に浅草で逢引きして駆け落ちを想起させるような歌詞は困る」として風紀紊乱を理由に、当日になって放送禁止となったのであった。一ヶ月後の七月二十八日に音楽評論家の伊庭孝がラジオで「東京行進曲」を三十分にわたって痛烈に罵倒したことでこの放送禁止は社会的に波紋を呼び、作詞者の西條八十が公開反論したり、楽壇を飛び出して思想界に一石を投じたりと、新聞雑誌の誌面を賑わせた。この事件はマスコミで大騒ぎして時の経過とともになんとなく消滅してしまうのだが、次なる事件ではそうはいかなかった。
 

「興奮しちゃいやよ」


  一九三一(昭和六)年二月十四日(土)の「お昼のジャズ」はかねてから青木晴子のジャズ小唄が予定されていたが、二日前の十二日午後になって「家庭中心の放送では、大いに良風美俗を害するもの」という風俗壊乱を理由に中止となった。JOAK嘱託で洋楽放送を司っていた堀内敬三は「何しろジャズ小唄はジャズとは離れて中には大変なものもあるので、今後はこれ等に対していくらか手加減して放送して頂くやうな方針で居ります」(『読売新聞』 二月十四日)と語っている。一九三一年はエロ・ブームに影響された流行歌がレコード界を席巻していた。二月十四日に放送が予定されていたのは、ポリドール松竹レコード(松竹映画専用のブランド)の同月新譜「ねえ興奮しちやいやよ」(蒲田音楽部=作詞・作曲、青木晴子=唄/S1)であった。
 
〽すれ違うときゃ目でウインク 会ったその時ゃ手を握り 
 想いをこめる指の先 いらいら焦れてじれったい 
 なんだか胸がくすぐったい ねえ、ねえ、興奮しちゃいやよ 
 
という歌詞は、たしかに土曜日のお昼間に家族の一家団欒で聴取するラジオ番組としてはふさわしくない。そうして、この一件がきっかけとなって逓信省ではラジオ番組の取り締まりを強化したことが、次の新聞記事から窺われる。
 
ジャズ小唄や新小唄が時代の寵児として街頭へ街頭へと流れ込んでゐるが多産の結果その多くの歌詞は猥雑野卑なものが多いので愛宕山AKでは家庭を中心とする放送には弊害があるとてこれ迄全国へ中継放送してゐた俚謡や新小唄を明一日より放送を中止し逆に各地方局より郷土が誇る純粋の俚謡を中継放送することに決定した、ファンには一抹の淋しさを与へるであらう
(『読売新聞』同年二月二十八日)
 
 記事が伝えるとおり翌三月一日からの放送では、「猥雑野卑」な歌詞を歌った流行歌や映画主題歌は番組表から一掃された。
  三月の放送内容を追ってみると、お昼の時間は長唄や新日本音楽、活動弁士による映画説明、民謡、講演といった調子で、いきなりおとなしくなった。午後のゴールデンタイムである八時台から九時台も連続講談、ラヂオドラマ、器楽独奏やオーケストラの洋楽放送、公民講演など硬軟とりまぜながら、健康的なプログラムとなった。三月十日は陸軍記念日で夕方から「陸軍の夕」が放送されたが、九時からはラヂオドラマを流して聴取者を喜ばせている。
 ちょっと変わった番組では日比谷公会堂から中継された帝国拳闘会主催・春季拳闘試合(十二日)、全国八ヶ所から中継する全国子供大会(十六日)、地方民謡大会(二十二日)、浪花節大会(二十九日)、戸塚グラウンドからの「アラメダ対稲門クラブ野球試合中継」(二十九日 第二放送)などが企画され、ジャズや流行歌謡の抜けた穴を埋めた。おおむね先の記事でJOAKが宣言したとおりの番組編成に変化したといってよい。
 しかし、突然ジャズや流行歌が番組表から消えたことで聴取者からの苦情があったのは想像に難くない。ひと月もたたない三月二十八日には早々に「久し振りのジャズ」(読売新聞ラヂオ欄)と銘打ってジャズ放送が復活した。さらにその一ヶ月後の四月二十五日には「大衆向の曲に浮かれる」というやや控えめな惹句で「ミスター・ニッポン(逸子の歌)」(西條八十=作詞、足利龍之介=作曲)、「侍ニッポン」(西條八十=作詞、松平信博=作曲)、「阿蘭陀船」(西岡水朗=作詞、藤井清水=作曲)、「サクラ・オンパレード」(西條八十=作詞、中山晋平=作曲)、が羽衣歌子の歌唱で電波に乗った。いずれも色恋からは距離を置いた映画主題歌やレコード流行歌で、JOAKが許容ラインを探り探り編成したさまが想像できる。
 こうした瀬踏みを経て、二村定一の海外ジャズソング放送(五月七日)、マルヰ・ジャズバンド(五月十五日 札幌中継)、大阪ジャズバンド(五月十九日 大阪中継)、アメリカから来日した小関ローイ・ジャズ・オーケストラ(六月十八日 東京)と外堀を埋め埋め、ジャズ放送が順調に復帰した。七月十二日には二村定一の歌唱で「キャンプ小唄」(島田芳文=作詞、古賀政男=作曲)や「箱根小唄」(市村鐘一=作詞、湯山光三郎=作曲)が放送されて、レコードによって知られていた流行歌が事実上解禁された。
 八月からは色恋をふんだんに盛り込んだ映画主題歌やジャズソングも堰を切ったように電波を賑わせた。たとえば八月二十三日には淡谷のり子のボーカル、和田肇のピアノで
1、あなたはいつも私の胸に   
2、二つの恋   
3、心の雨   
4、農夫の恋歌   
5、嘆きの天使の唄   
6、私は恋を喰べます   
 という柔らかいプログラムが放送されたし、翌日の二十四日にはJOBK(大阪放送局)の放送で午後八時からナンセンス小唄特集が組まれた。 原田勇(浅草オペラ出身の歌手)と加賀一枝(道頓堀・赤玉食堂の専属歌手)が
1、AさんとBさん   
2、ラヴ草紙   
3、梢の唄   
4、私のラバさん   
5、心ブラ行進曲   
6、おや失礼  
 というプログラムを歌った。東京だったら解禁にならないようなエロ・グロ・ナンセンス趣味のジャズ小唄を盛り込んでおり、およそご家庭向きとはいえないラインナップだ。もともと大阪は東京よりも表現の規制がゆるく、また大阪放送局は放送企画の独自性を保っていたから、JOAKとJOBKの意識差がこのような場面に表れるのだった。
 くだって九月二十日午後八時にはJOAKが「映画の夕より」と題して、田谷力三の歌唱で
1、レビュウの踊り子   
2、巴里の屋根の下   
3、日本のお母さん   
4、ラモナ   
5、サムライ・ニッポン   
6、リオ・リタ   
7、野に叫ぶ者    
 という甘いプログラムを放送した。このあたりからジャズも流行歌も自粛前の頻度を取り戻していった。公共放送という性質上、戦前から融通がきかないことで有名だった日本放送協会も、聴取者の娯楽番組への要望には答えざるを得なかった。言葉を変えれば、ラジオは厳しい統制をもってしても、レコードによって氾濫する大衆趣味の前に屈せざるを得なかったのである。民意によって放送が中止されたり、また復活したりという現象は今日でもさして珍しいものではないが、昭和初期から娯楽の主導権は時として大衆サイドに譲られたのだ。
 

「放送中止さまざま」


 ラジオ局が放送中止する歌謡は猥雑野卑な歌詞にとどまらなかった。一九三一年三月十日の「お昼の音楽」は馬場晴子(ソプラノ)と近藤柏次郎(ピアノ)による和洋の歌曲だったが、プログラムから一曲外して放送された。明治期の作家で愛煙家の馬場孤蝶(一八六九〜一九四〇)が作詞した「煙草の歌」は、煙草礼賛の内容が家庭向きではないとして放送から外されたのである。日本ポリドールの「煙草の歌」を五月新譜で発売予定だった日本ポリドールは転んでもただでは起きず、放送禁止を逆手に取って「先日東京放送局で放送中止になつたとかいふ問題のジャズ・ソングですから必度[ルビ  きっと]皆さんからご評判を頂けるものと確信致します」と新譜月報に書いてちゃっかり宣伝に使った。炎上商法のはしりだ。(註①)
 またおなじ一九三一年十月六日の午後六時「子供の時間」に予定されていた台湾の郷土民謡は、放送のためわざわざ台湾から高山族(漢民族の文化に染まっていない原住民で、のちに高砂族と呼称された)の歌手、音楽家を招いていたのにも関わらず、四日午後になってとつぜん警視庁から放送中止を申し渡され、草笛名人の講演「草笛とレコード」(東郷實男)に差し替えられた。その背景には前年に起こった霧社事件の影響がある。霧社事件は一九三〇年十月七日、台中州の霧社で統治政策や差別的な待遇への不満をつのらせたセデック族の住民が蜂起し、駐在警官を含む邦人約百四十人が殺害された事件である。事件を受けた台湾総督府は民族意識を高揚させる郷土音楽に神経を尖らせ、民謡の歌唱や民衆歌劇の公演を禁止していた。台湾総督府の意向を忖度して、日本での放送も禁止されたというわけである。
 しかし、実はこの放送中止に先立つこと四ヶ月前、六月十七日にはラジオ放送のゴールデンタイム午後八時台に「台湾郷土民謡」が特集されていた。高山族の民謡と舞踊に造詣の深い藤村梧郎・明石須磨子夫妻の歌唱、栗原重一(指揮)パパイア・ジャズバンドの演奏で、日月潭の民謡「パイワン族の耕作の歌」「水社化蕃の杵の音律」など六曲が無事に放送されていたのである。(註②)
 この二種の放送の「日本人歌手はOKで台湾現地民の歌手はNG」という判断からはしなくも窺えるのは、日台間の微妙な感情的問題と、ラジオ放送を統括する逓信省と治安維持を司る警視庁の主導権争いである。日本人歌手が国内に向けて歌う台湾民謡はあくまでエキゾチックな話題性に留まるが、台湾から招聘した歌手が歌うとなると話は違ってくる。現地では禁止されている郷土民謡を台湾人が統治国の日本で歌うことで、高山族の感情を刺激することを警視庁は危惧した。逓信省からすれば放送内容には問題ない。台湾人歌手が放送することによって台湾の治安に不安が生じるから、警視庁が国策を盾にとって放送=逓信省に容喙したのがこの放送中止事件であった。
 放送をめぐる警視庁からの介入はしばしば起きた。一九三一年九月二十五日から十回にわたって、日本橋区堀留署長で警視庁検閲係長の橘高広(一八八三?〜一九三八)が講演「映画の常識」を放送する予定となっていた。橘は映画ファンとして知られており、映画検閲を行なうかたわら立花高四郎の筆名で映画に関する著作を出していた。JOAKは「一個人として児童本位の映画教育を主題として」講演してもらう積もりだったのだが、事前に警視総監から「放送まかりならぬ」(読売新聞 九月二十三日)と横やりが入って中止となった。高橋守雄総監は「何も絶対に放送してはいけないと云ふのではない」と言いながらも「若し中途で職務上講演が出来ないやうな場合が出来たとすると聴取者に対して甚だしい迷惑をかける事になるから連続講演は遠慮したらどうかと云つたゞけです」(読売新聞 九月二十三日)と苦しい弁明をしている。
 一九三二(昭和七)年一月二十四日、木挽町・歌舞伎座で開催された公演(前年の東北凶作地と満州出動軍人家族を慰安する目的で行なわれた)から、喜劇「彼女のSOS」が中継放送される予定だった。しかしこの時は警視庁ではなく逓信省から横やりが入って中止になった。代替プログラムとして日本俗曲集二十七曲と長唄「供奴」が放送された。喜劇の台本は事前に逓信局に提出してあったのだが、放送前日の二十三日夕刻になって、台本の十数カ所が風紀紊乱に当たるとして削除命令が下されたのである。歌舞伎座で上演するため同じ台本を警視庁の検閲係にも提出してあって、そちらはクリアしていたので放送局は慌てふためき、舞台監督と相談して放送を中止してしまった。一九三一年に台湾民謡の小事件があってから放送局と逓信省の間がぎくしゃくしていたということもあるのだが、ここでも放送番組が警視庁と逓信省の鞘当てによって翻弄されたのである。
 最後にエロ番組をついうっかり電波に乗せてしまった事件を紹介しよう。一九三三年一月二十七日午後八時五十分から放送された櫻井京子、夏山茂(=明本京静)らの舞踊音楽「世之助狂想曲」(町田嘉章=構成作曲、福田蘭童=編曲)は、井原西鶴の「好色一代男」をベースとしたストーリーであった。題材が題材なので放送台本が検閲に上がってきた時点で分かりそうなものだが何故か台本は逓信省の検閲をするっと通過。放送直前になって「怨めしや世之助、これは高雄の紅葉見にそゝのかされ一期の男に毒を飼ひ汝に見かへし甲斐もなく秋の扇と捨てられし……」(亭主を毒殺して世之助になびいたのに捨てられ)という歌詞を発見して狼狽し放送中止を命じたが「時既に間に合はず淫猥なる放送は無遠慮に全国に中継放送されて了ひ逓信当局は監督上の大失態を演じた」(読売新聞 一九三三年一月二十八日付け)というのが一部始終である。逓信局監督課長は「時代的にかけ離れているので許可したのですが」と言い訳をしているが、後述の「島の娘」事件と同様、明らかに凡ミスである。西欧的なエロが社会的ブームにまでなっていたがために、時代劇だと油断して内容も改めずにうっかり許可をしてしまったのだろう。このときは文部省社会教育課がカンカンになって「ラヂオはもはや百万の聴取者を突破してゐますから大衆教育の機能を発揮する為にはエロ、グロのものはむろんわづかな語句でも念を入れて放送すべきですこの点逓信当局に注意するつもりです」と憤慨している。このように放送を取り巻く検閲は、ラジオが即時性、公共性を備えていたためにレコードとは段違いに厳しい環境であった。
 
 

「島の娘事件」


 ラジオ放送を監督する逓信省は放送内容が穏やかでない場合は放送中止を通告したが、時として放送内容の一部変更を迫ることもあった。ただし、その変更方針が一貫していなかったのか、裁定は恣意的であった。ある時にはなんの問題もなく放送された内容が、ある時は内容差し替えを命ぜられるということもある。
 有名なのが「島の娘」事件である。これは一九三二年十二月二十日に発売されたビクター流行歌「島の娘」(長田幹彦=作詞、佐々木俊一=作曲 葭町 勝太郎=唄/52533—A)をラジオで放送しようとした際、〽ハアー島で育てば 娘十六恋ごころ 人目忍んで 主と一夜の徒情 という歌詞の「娘十六恋ごころ」という箇所が放送上ふさわしくないという理由で改変されたというエピソードである。
 このレコードが発売されて間もない大晦日、午後七時半からの「忘年演芸会」で勝太郎がラジオで「島の娘」を歌ったときは、〽娘十六 恋ごころ と歌ってもなんらお咎めはなかった。[註③] 大晦日の放送をきっかけにしてレコードの方は飛ぶように売れ、発売三ヶ月で公称三十五万枚、六ヶ月で五十万枚を売り上げた。年を越して一九三三年三月二十三日、午後九時からの「歌謡曲の時間」にも勝太郎の「島の娘」が歌われたが、このときも歌詞は別に問題にはなからなかった。
 ところが運が悪いことにひとつの事件が起こり「島の娘」も巻き込まれることになる。森一也「『島の娘』繁盛記」(季刊78  第30号  一九七八年六月)によれば一九三四年春、女学生の私通事件が新聞沙汰となった。捕まった女学生は「娘十六恋ごころ・・・・・・という唄があります。私はもう十六ですから恋をしてもよいと思いました」と警官に述べたので、いきおい「島の娘」の歌詞がクローズアップされたのだ。事件から間もない同年七月十六日に放送予定だった「島の娘」に突然、逓信省から待ったがかかった。放送三日前になって、歌詞中の「娘十六恋ごころ」「主と一夜の仇情」が取り沙汰されたのである。逓信省無電係員は「この前勝太郎さんが放送した時はツイうっかりしていたためそのまま許してしまったのですが、レコードと違って、ラヂオは如何なる家庭へでも入って行くものですから、あの一節は良家の子女に聞かして面白くないと思ひ禁止したわけです」(東京朝日 七月十四日付け)と言い訳しているが明らかにそれは女学生の事件を受けての理由で、JOAK側も監督官庁に従わざるを得なかった。十三日夕方に放送中止の報を聞いた小唄勝太郎(葭町勝太郎は一九三三年十月から小唄勝太郎と改名していた)はすぐに作詞者の長田幹彦に相談し、歌詞を作り変えてもらった。
 七月十六日午後八時四十分からの歌謡曲の時間では、勝太郎がその改訂歌詞〽ハアー島で育てば 娘十六紅だすき 咲いた仇花 浪に流れて風だより を歌うことになった。当日朝刊の各紙ラジオ欄はこの歌詞改変騒ぎを逆手に取って大きく宣伝した。しかしラジオから流れ出たのはオリジナルの「恋ごころ」の歌詞だった。勝太郎がついうっかり間違えて元の歌詞を歌ってしまったのである。放送翌日、東京朝日新聞の「鉄箒」欄はこの放送に対する逓信省の横暴を非難し、当局が「ツイうっかり」していた割にはふだんから芸妓歌手の放送に色っぽい歌詞がやたらと多いことを取り上げて放送禁止の恣意性を揶揄している。初手からしくじった形だが、これ以降ラジオで勝太郎が「島の娘」を歌うときは改訂版が用いられた。[註④]
 ラジオ放送でひと悶着あった「島の娘」だが、レコードのほうは検閲が行なわれる前のリリースなので取り締まりを受けることはなかった。一九三四年八月一日、レコード検閲が新設された時この点について新聞記者から質問された検閲主任は「こゝでは風紀を紊すとはいへないでせう」とまったく問題にしなかった。[註⑤] その言葉のとおり、レコード検閲開始後、ビクター社が開発した長時間レコード(戦後LPレコードに採用されたのと同じ三十三回転)で「流行歌集 佐々木俊一作曲篇」(一九三四年十一月新譜)が作られた。既存の「涙の渡り鳥」(小林千代子=唄)、「島の娘」(小唄勝太郎=唄)、「僕の青春」(藤山一郎=唄)のレコードを一面に収録している。ラジオの一件があるため一応レコード検閲の稟議にかけられたが不問に附された。流行歌の歌詞には恋愛の描写や恋情を誘発するものが多いが、レコードの場合はラジオとは取り締まりの基準が異なる、とレコード検閲係は述べている。「此の程度のものをも処分するに於ては、取締範囲も広汎に及び他面の支障を来たす」(『出警報』第七十四号 一九三四年十一月)と、「この程度」扱いである。ラジオ放送を司る逓信省とレコード検閲を行なう内務省では、取り締まりの基準が異なっていたことが分かる。
 このほかに同じビクターの大ヒット曲で、今では京都の舞妓のテーマ曲のようになっている「祇園小唄」(長田幹彦=作詞、佐々紅華=作曲、二三吉=唄/51037-A/B 一九三〇年一月新譜)も歌詞の一部に逓信省から難癖がついた。作詞者の長田幹彦がその顛末を語っている。
 
(前略)その時分の逓信局長ににらまれて、「もあい枕の川千鳥」というあの文句がいかんというので役所によばれて新聞記者諸君立合いのうえうんとひっちばられた。バカみたいな話である。
  文句はすぐなおしたがもあい枕ではそう直せるものじゃない。とうとうそのままになって二三吉さんなんか平気でうたっていた。あの時代のお役人なんてひどいものだった。
「あなたは家庭で娘さんたちの前でこの唄を平気でうたうか」と二三度どなられた、「もあい枕」というのは女と二人で枕をならべて寝ている情景だとわるく推量したものだったらしい。おそろしい時代であった。立派なヒゲのある人の方がずっとエロだったのである。(後略)
(長田幹彦「『祇園小唄』の話」『ぎをん 2号』祇園甲部組合)
 
 大西秀紀氏はこの文章より「逓信局長からのクレームということは、ラジオ放送の台本検閲の際の逸話と思われる。放送では訂正したが、以後元のままで通したということだろうか。」(『映画主題歌「祇園小唄」考—承前—』立命館大学アート・リサーチセンター紀要 二〇〇五年三月発行)と考察している。当時のラジオ放送は原則として生放送だったため、放送当日になって番組を中止したり内容を変更したりという場当たり的な対応が多い。逓信省の役人は妄想力がよほど豊かだったのか、こんなエピソードも残されている。
 
NHKが例えば東京放送局(JOAK)と称していた時代、逓信省という放送界を管理していた役所が、番組をチェック、極端な場合、命令で電波を中断させたりする例もあった。
そのころ放送される邦楽の歌詞を毎日、都新聞のラジオ版がのせていたが、放送局に電話で、「今夜の清元の“香水”は放送してはいけない」といって来た。なぜですかと尋ねたら、「だって香水の香り床敷きはワイセツだ」じつは床しきであった。
(戸板康二「すべてが「ちょっといい話」とはいいにくいのだが、戦争とその前後の珍しい話」『最後のちょっといい話』文春文庫 一九九四年)
 

「問題となった時事歌謡」


 放送される歌詞や台本に過剰とも思えるチェックを行なった逓信省でも、毎日スタジオから生放送の電波を流すさなかで想定外の出来事に遭遇することはあった。JOAKは常にラジオならではの特色ある番組企画を模索していたが、そのひとつに「時事歌謡」があった。ニュース歌謡である。「歌謡曲に良い意味での政治性を付与せしめる」(『昭和十七年 ラジオ年鑑 』日本放送出版協会 一九四三年)という基本姿勢で政治、経済、社会現象などから広くテーマを求め、国民生活と密接な時事問題をとらえて歌詞とリズムに乗せる、という企画であった。ちょうどその企画がはじまった一九四〇年、近衛文麿の提唱で新体制運動が展開されて日常のぜいたくを戒める「七・七禁令」が布告されるや、さっそく丸山鉄雄のアイデアでこれをテーマとした時事歌謡が企画された。三曲の時事歌謡が作られ、ラジオ放送が終わる間際の午後九時三十分に放送された。歌詞はすべて丸山鐵雄が丸井頑鉄のペンネームで書いた。
 第一回は一九四〇年九月十六日に放送された「国策テキ数へ節」(秋山日出夫ほかコロムビア・リズム・ボーイズ=唄、仁木他喜雄=編曲・指揮、東京放送管絃楽団)で、「大漁節」の替え唄であった。当時もっともジャジーな感覚にあふれたコーラスグループとアレンジャーによる時事歌謡がいかにトガッた聴きものであったかは想像に難くない。第二回はルルー作曲の明治期の軍歌「抜刀隊」をもじった「ぜいたく排撃の歌」(藤山一郎・コロムビア男声合唱団=唄、服部良一=編曲・指揮、東京放送管絃楽団)で、同年十一月三十日に放送された。同年十二月二十日の第三回は明治期の書生節「ノルマントン号沈没の唄」の旋律を使った「分らない節」(鈴木正夫=唄、松尾等=編曲・指揮、東京放送管絃楽団)であった。このころラジオ番組は「紀元二千六百年」の記念番組が目白押しでいささか飽きが来ており、一日の放送の終りに放送される時事歌謡というアイデアは目新しかった。なかでも第三回の「分らない節」の反響は大きかった。丸山鐵雄はその歌詞を戦後になって書き起こしている。
 
一、        あれも足りないこれもない  くらしが立たないしょうがない
    こんなぐちなどいう人にゃ  新体制は分らない
二、        昔はよかった楽だった  ドライブしたり踊ったり  
    こんなぜいたくする人にゃ  新体制は分らない
三、        机の上に足を上げ  ああせいこうせい統制だ  
    こんな態度の役人にゃ  新体制は分らない
四、        上の人にはえびす顔  下の者にはえんま顔  
    こんな世渡りする人にゃ  新体制は分らない
五、        ああ世の中は分らない  なにがなんだか分らない  
    こんな弱気をいう人にゃ  新体制は分らない
 
 さすがに役人を揶揄する三番歌詞はカットされてラジオ電波に乗ったが、それでも国民歌謡では望むべくもない風刺の効いた時事歌謡は、大いにリスナーに受けた。放送直後から再放送希望や歌詞問い合わせの投書が全国から殺到した。この時期、新聞は紙数も少なくなり、ラジオ番組を紹介するスペースもなくなっていたから歌詞を知るには放送局に訊くしかない。その反響は思いがけず大きな波紋を描いた。
 リスナーのリクエストにこたえてJOAKは年が明けた一九四一年二月二十一日から二十三日にかけ、「時事歌謡連夜三題」と題して三曲を再放送した。その放送の二、三日後、企画者の丸山鐵雄が警視庁特高課の聴取を受けたのだ。それというのも、第七十六回帝国議会(一九四一年十二月二十六日〜四一年三月二十五日)で衆議院議員から平沼騏一郎国務大臣に対して「ラジオで新体制は分からないと野次っているような歌をやっていたがあんな放送をしておいていいのか」と質問が飛んだことを受けて、平沼の周辺から調査の命が下ったのだった。丸山は特高課で思想犯を担当していた高木課長から長時間にわたる聴取を受け、放送の意図が国策を周知せしめるためのものであることを説明した。放送局の人間だからか、特高という泣く子も黙る怖いイメージからはかけ離れた丁重で穏やかな事情聴取だったようだ。高木課長は放送の意図を汲んで丸く収まったのだが、それでも「決まりなので」と、表現に不行き届きがあった旨の始末書を書かされたという。[註⑥] ことの成り行き上、同時に風刺的な時事歌謡も続行を封じられた。
  やがて始まるレコード検閲も、ときには痛くない腹を探るような奇想天外な横槍を刺してきたが、ラジオ放送は生放送で世の中に流れてしまうと訂正がきかない。そのため厳しい視線が放送局内外から注がれていたのだ。
 

①   馬場孤蝶=作詞、近藤柏次郎=作曲、馬場晴子=歌、ミッキイ・ジャズ・バンド=演奏/ポリドール 772—A 一九三一年五月新譜。馬場晴子(一九〇二〜?  大津留晴子)は馬場孤蝶の次女で、このジャズソングは孤蝶が晴子のために作詞した。晴子は『明治学院史資料集【第十三集】』(明治大学図書館 / 一九八六)および父親の著作を再版した『明治文壇の人々』(岩波ブックサービスセンター / 一九九三)に回想を記している。

②   藤村梧郎(一八九八〜一九五五)は浅草オペラの人気俳優で昭和期にはレヴューで活躍した。共演の明石須磨子(一九〇〇〜七七)は藤村の妻で、やはり浅草オペラのスターであった。藤村梧郎は放送当日のラヂオ欄で曲目について、一九三一年一月に台湾の日月潭で現地の人々と酒を飲み交わしながら採集した民謡だと述べている。ただし放送した民謡はこれ以前に台湾の音楽家・張福興が採譜したものと重複している。張福興(一八八八〜一九五四)は一九二二年春、日本の音楽学者・田辺尚雄が日月潭で民謡の録音採集を行なうのに先立ち、台湾教育会の依頼でタイヤル族の民謡を採譜した。十五曲が松山捨吉編著「水社化蕃杵の音と歌謡(蕃人の音楽第一集)」(台湾教育会 一九二二)として出版され、田辺の著作「第一音楽紀行」(文化生活研究會 一九二三)にも収録された。小針侑起氏所蔵の藤村梧郎遺品には「水社化蕃杵の音と歌謡」をはじめ台湾教育会が編纂した民謡集が複数所蔵されており、そうした先行研究から藤村も台湾民謡に興味を抱いたものと思われる。台湾向けに製作された藤村梧郎・明石須磨子=唄、パパイヤジャズバンドによる「親睦の唄」「遊泳の唄・南の島」(台湾コロムビア / 80136 / 一九三一年録音)も藤村遺品に含まれており、放送された民謡がどのようなものであったかを知ることができる。

③   戦前、毎年大晦日は午後七時台からのゴールデンタイムに演芸会が放送されていた。この年の忘年演芸会には林家正蔵(落語)、葭町勝太郎、桂小文治(落語)、立花家橘之助(浮世節)、春風亭柳橋(落語)、小林千代子(流行歌)、柳家金語楼(落語)が出演した。勝太郎は午後七時四十五分から出演して「米山甚句」「島の娘」「柳の雨」を歌った。この番組のあと午後十一時五十五分からは全国七ヶ所の放送局の中継で除夜の鐘が放送された。

④   一九三五年二月二日と一九三七年四月二十三日にも小唄勝太郎が「島の娘」を放送している。

⑤   「レコード検閲けふ店開き『島の娘など問題でない』と主任さん中々寛大」(報知新聞 / 一九三四年八月二日夕刊)。長田暁二『わたしのレコード100年史』(英知出版 / 一九七八)にはレコード検閲がはじまってから「手始めに、このレコードを発禁処分にしました」と記されているが、「島の娘」が発売禁止となった事実はない。

⑥   「分らない節」歌詞と放送後のエピソードは丸山鉄雄「JOAK〜NHK 放送歳時記」(季刊78 / 第31号 / 一九七八年九月)による。「国策テキ数へ節」は一九四一年一月二十九日と二月二十二日の再放送時、林伊佐緒の歌唱、細川潤一の編曲・指揮に変更された。この交代は第六章で述べる「タリナイ・ソング」に関係があると思われる。また、「分らない節」の歌手も初回放送の鈴木正夫から再放送時は波岡惣一郎に替わっている。

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