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思考から生まれた線は死んでいる

私は高校を卒業してから、福岡のデザイン専門学校に通っていた。

入学の動機は『絵が好き』というだけで、社会に出た時のビジョンを持っていなかったものだから、フワフワしたまま、あっという間に2年間が過ぎてしまった。

専門学校の学科には、水彩・油彩・デッサンなど、いわゆる“アナログな手法”も学べるコースがあり、私は迷わずそのコースに進んだが、

蓋を開ければ、内容の7割はPCで、あとの3割がそれだった。

たしかに『デザイン専門学校』であり『就職に強い!』と謳われていた分、今となっては「そりゃそうなるわな」といった感じだが、当時の私としては納得がいかず、悶々とした日々を過ごしていた。

それでもその3割の内容には充実感を感じていて、中でも吉浦拓三先生による授業は面白かった。

“「上手い絵」と「良い絵」は違う”

と先生は口癖のように仰っていたが、その言葉に関して『わかる』といえばおこがましくもあるが、どこか納得している自分がいた。

私がそう感じる要因は、先生の描く『線』にあった。

先日20年ぶりくらいに、先生の個展にお邪魔させてもらったが、先生の『線』は健在だった。

久しぶりにお会いして、今も趣味の範疇だが絵を描き続けていることを伝えると、とても喜んでくださった。

恐縮ながら、インスタにアップしている自分の絵を見ていただいたが、そこで私は自分の絵を改めて見て言葉を失ってしまった。

死んでいる。
私の描いた『線』は死んでいる。


私が先生の描く『線』に何を感じていたかというと、線が『生きている』という点だ。

ひどく抽象的な表現になってしまったが、それ以外に言葉が思いつかない。
現に私は自分の絵に対して、生命力のかけらも感じなくなってしまっているくらいだから。

絶句してしまいすぎて、先生にどんな言葉をいただいたか殆ど覚えていないが(先生すいません…)、ただ、

『思考を取り払えればもっとよくなる』

という言葉がアドバイスの主軸であったことは確かだった。
それがあまりに的を射ており、心当たりがありすぎて困惑した。

“上手く描こう”・“上手く描くにはどうすればよいか”

という思考が常に内在し、かたく構える。


私は描きたい絵を描いて、描き終えた時には毎回納得しているけれど、改めて見返すと、

どこか“自由さ”や“活力”のようなものを置き去りにした印象を持った。
こんな感覚を自分の絵に対して抱いたのは初めてだった。

そしてショックでもあった。

“「上手い絵」と「良い絵」は違う”

20年前に感銘を受けた言葉を忘れたことはなかったし、それを意識していたつもりだったけど、
実際には、絵に落とし込めていなかったのだから。


しかしショックと同時に、自分の現状を把握できた喜びと、これからの制作活動へのワクワク感が込み上げてきた。


『いつか一緒にグループ展をやろう』

最後にそんな声をかけていただいた。

“いつか”とはいつなのか。


答えは簡単。


私が思考を取り払えた時だ。











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