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大人になってから改めてドラクエ5を遊んだ感想

何年生の頃だったでしょうか。小学生時代、初めて遊んだ当時は、自分自身が勇者になりたい男子だったので、「自分じゃなくて息子が勇者であること」を少し残念に思った記憶があります。

逆に言えば、そう思うほどに夢中でしたし、ほとんどすべてのRPGにそのぐらい感情移入していました。ドラクエ5とは違って、自分が勇者ではあるんだけど「指揮官」という役割で、画面の中では戦えない『ダウン・ザ・ワールド』という作品では、せめてもの応援に、キャラのモーションに合わせて画面の前で棒を振っていました。

それが、20数年後。

もちろん当時のような没入はできないわけですが、リメイクの仲間会話システムでストーリーが一段階掘り下げられていて、大人としての気付きがありました。小学生時代の僕が「やりたかった」勇者という使命を、大人たちは「こんな子供に背負わせるのはかわいそう」と言っていたのです。もしかしたら担当したライターさんが「親世代の再プレイヤーが多くを占めること」を想定して書いたのかもしれません。

バトル要素があるゲームで「戦わせるのはかわいそう」なんて盛大な矛盾でもあるのですが、人の親の世代になった僕は(人の親ではないのに)「かわいそう」と言われて「確かに……」と感じました。

それを当人が思い悩む様子はなく、軽やかに受けて入れているところはさすがドラクエ。色彩はあくまでも明るめ。プレステ以降のFFなら双子の妹に焦点を当てて、自分が兄の力を奪ってしまっているのではないかと悩ませたりしそうです。そういうのも好きですけど。

5の息子くんは、戦闘という業務内容ももちろん、生まれた時点で使命が定められていることもよく考えたら不憫です。

子どもの頃の僕はなぜか運命主義者(?)で、生まれ持った才能に従って魔法や技を覚えるRPGを好み、自由に育成できるFF5みたいな作品はいまいちハマりませんでした。「みんな同じになっちゃうじゃん」と思っていたのです。実際、何かしら縛らないと究極的にはみんな同じになっちゃうわけですけど、才能とか宿命とかが決まっていて選べないほうがリアルであるとさえ感じていました。

大人になって、選べることの「価値」と「リアリティ」を知りました。中学ぐらいまでの子どもが自力で選べることって、極端に言えば部活とか志望校ぐらいですよね。選択肢の存在自体を知らなかったわけです。社会に出てみると「結構選べる」というか「自分で選ばないと話が進まない」ということに気付きます。

僕が「選べる」と感じたのは、きっと環境が恵まれていたせいでもありますが、多くを望んでいないせいでもあるでしょう。そこらへんでバイトしてりゃ自分一人はまぁ生きていけます。

突っ立っていても宿命が自分を導いてくれたり神仏が道を指し示したりしてはくれない――ということを身をもって知ると、自由度の高い作品が俄然楽しくなりました。

5は主人公も息子も覚えられる呪文は固定で、過酷な宿命を背負っていますが、ミルドラース撃破後は晴れて自由の身となります。何ならそこからが人生の本番と言えるかもしれません。主人公のグランバニア王戴冠は状況時に拒否る選択肢は無かったでしょうけれど、息子は必ずしも次の王にならなくてもいい気がします。

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