堅実な消費という問題

中学生の時にヌメ革の長財布を16000円で購入した。

アルバイトはしていなかったし、お小遣いを貯めた記憶もないのでお年玉か何かで買ったのであろう。

学生服の後ろポケットからはみ出るコンチョボタン、格好良さの演出と紛失のリスクを軽減してくれるウォレットチェーンが誇らしい。

学生服にバイカーテイストのウォレット、今考えるととてつもなくダサいのだが…しかし客観的な視点を持っていない当時の私は眩しいほどに輝いていた。自分の世界で。

あれから20年、ノスタルジーと共に所有していた財布を手放す決心がついた。

オークションで売りにだすと6000円の値段がついた。

ナルシズムの育成に強く働きかけた功績、語りたくなるほどの思い出を育んだ時間、それらがたったの10000円で手に入ったのだ。

捨てても満足であったのだろう…電卓を弾く行為すら馬鹿馬鹿しい。私にとって素晴らしい消費であったことは間違いないのだ。


消費とは文字の通り費用が消えることである。

お金を払った後に残るのは手元にある物、心の中に残るもの、そのどちらか、または両方である。

近年では誰もが自分の持ち物を販売できる環境にある。多くの人がリセールバリュー、つまり再販できる価格を気にしながら買い物する時代だ。

購入価格と販売できる価格の差異が少ない物が理に適った消費とされ、そういった消費を推奨する声も多い。

洋服、時計の世界ではそういった考え方が特に顕著だ。

消費に対する意識を高めていった結果、言葉の意味を打ち消すような行動に辿り着く。

消えて行く費用を極力抑えた算段的な消費の中に心が介入する余地はあるのか。

便利になった世の中で我々はとてもとても大事な物を失っている気がする。

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