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人生やマイルールを振り返りたくなった本

『コーヒーはぼくの杖 発達障害の少年が家族と見つけた大切なもの』を読んでおもうこと

『コーヒーはぼくの杖発達障害の少年が家族と見つけた大切なもの』岩野響・開人・久美子(著)

昨日読んだのが、『コーヒーはぼくの杖 発達障害の少年が家族と見つけた大切なもの』。15歳でアスペルガーである岩野響さんの半生を、彼とご両親が綴った本です。
彼が8歳の頃に診断を受けたあとも、先生や両親の助けもあり「個性」のひとつと受け入れられ、楽しく通えていた小学生時代。
けれど中学生になってからは、ほかの生徒も思春期になる中で「周りと同じようにできないこと」による分断と限界が訪れます。
彼はこの頃にじぶんが発達障害であることを母親から聞かされたものの、「障害」であることを受け入れられずに、必死で「ふつう」を装いました。でも、どうしてもそれができない。

息子の突飛な言動に戸惑いながらも、彼のいちばん近くで笑い見守ってくれる母。
父親として、発達障害者として生きる彼にしっかり現実を見せなければと、いっしょに新しい道を模索しながら、背中を押してくれる父。

彼は「珈琲焙煎士」という道にたどり着くまでに、両親と共にいろんな道を模索しています。学校とは異なる教育機関であるとか、家業の手伝い、建設現場、家事等々・・。けれどもそこでは、彼の「ふつう」にできなさが浮き彫りになるばかりで、真っ暗闇を両親といっしょに手探りで模索していくような状態でした。

「同じ」の危険性と、「違い」の受け入れ

この本の帯には、「学校に行けなくなったアスペルガーの中学生が才能を活かして焙煎士の道へ。未来に迷ったらきっとヒントになる家族のものがたり。」というコピーが踊っています。
YOASOBIの『群青』にも描かれている世界観、「ありのままでいて、じぶんの好きなことを仕事にする」というのは、近年重要視される価値観でもあるけれどそれは全くもって簡単じゃない。志向されるけど実現できる人が少ないからみんな欲しがるんだろうな。
「障害」や「ジェンダー」、「国籍」などの違いを有するか、
どれだけ認知度があるか、視認性があるか、特性をいつ知るか
本人が受け入れるか、周囲にカミングアウトするか等々・・で悩みも対応策も変わります。
私はどれが良いなどと選べるものでもないし。

SNSが登場し、「違い」をカテゴライズ、タグ付けする/されることで
私はひとりじゃないんだって思えたりもするけれど、

「同じ」障害を持っていても度合いや所得などにより困難さは変わってゆくし、「違い」は「同じ」にはならない。

年齢・国籍・居住地・家柄・教育方針・思想等、「同じである/近しい」ことが前提である日本の学校という組織にいることで
制服、校則、勉強の内容やスピードなどを通して
「同じ」が当たり前であり、社会のルールである
「違い」は悪であり、排除される対象である
という考えを根付かせちゃっている
よなあ。
もし私が子供を育てるとしたら、現実問題ほんとにこの環境でいいのだろうかっておもっちゃう。
子供に複数の選択肢をもてるようにするためにも、お金って必要なんだよなあ・・なんて思いを読後に巡らせました。

私は大学卒業のタイミングで就活に苦戦し躓いたことで
ようやくじぶんの「違い」に気づき、苦悩し、
なんか気づいたら世界は「同じ」じゃなく「違い」に溢れてるんだなって綺麗事じゃなく体感として理解しました。
でもそれまでは「同じ」が当たり前で・・それって危険思想なんだな。
「違い」を前提に生きていく方が、ずっと生きやすいんだって思いました。

言わないこと・しないこと

この本を読んで改めて振り返りたくなったのが、じぶんが言わないこと・しないこと。それらは、これまでの経験を通して反面教師にしようとおもっているマイルールです。何をするか?以上に、何をしないか?がその人を如実に表す気がしています。

「当たり前」と「ありえない」を言わない

たとえば・・私、「当たり前」とか「ありえない」って言葉が嫌いです。
その言葉を使うことで、たとえば日々の感謝が抜け落ちたり、「じぶんの考えが及ぶ範囲内のことしか受け入れません」という意思表示になる気がして。
すでに今回のnoteでも「当たり前」って何度か使っちゃってますが・・、打ち消したい表現のときに使うワードです。

じつは絶縁状態になる直前、母はこの言葉をよく使っていて
その顔はしかめっ面で、どんどん老けこんでいくようでした。

半ば「当たり前」かもしれない日常を、一つひとつ感謝することで幸せのハードルが下がり、笑顔の多い人生を歩める気がします。
あとね、経験がふえてゆくと「初めて」が少なくなり、その結果「ありえない」って言いたくなっちゃうんだとおもうんです。
だからこそ意識して、年を重ねても「初めて」を受け入れる余白のある人でありたい、とおもっています。

価値観の押し付けをしない

あとは、しないと決めているのが価値観の押し付け。
かつて上司に、「お前はネガティブすぎるから、もっとポジティブに考えろ。」って言われたことがあるのです。
その時は仕事で成果の出せないじぶんが大嫌いで、いなくなりたくて、一人になると勝手に涙がでるような抑うつ状態でした。だからネガティブな自分を変えなきゃいけないのに変えられない・・ってネガティブループに嵌って抜け出せなくてすごく苦しかった。
そんな時に、ふと同僚に言われたのが「ポジティブの押し付けってうざいですよね」という一言。・・そんなこと、思っていいの?ってびっくりしたと同時に、じぶんを覆っている靄が晴れて
上司と違う考えのじぶんでもいいんだ!って思えて、はじめてネガティブなじぶんを受け入れることができました。
そこから思考や行動を少しずつ変えていったことで、ネガティブループをようやく抜け出すことができました。
そんな経験から、価値観の押し付けをしないということが自然とマイルールに。
自分の意見を主張する時に、意図せずしてしまうこともあると思うので、気をつけようという戒めになっています。

まとめ

本を読むと、内容やその時の気分によっていろんなことを思い巡らせることができます。気軽に異次元トリップできる無くてはならない習慣。
また何か共有したいことがあったら書きますね。
ではでは〜。



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