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「でも生きてるじゃん」

文章が上手くなりたいと思う。
具体的には、表現力や構成力を上げたい。

しかし、世の中には、「努力で獲得する○○力」を軽々と吹っ飛ばしてしまう文章というのがあって、私にとっては「健やかさ」を感じる文章がそれだ。

出会ってしまうと、読んだことを激しく後悔する。

健やかな文章は、素晴らしい。
読後、前を向こうという気持ちがみなぎる。
人生っていいよね、と知らない人にも微笑みかけたくなる。
何が書いてあったか忘れてしまっても、いいものを読んだという満足感が残る。

「愛されて育ってきたんだろうな」
「光の中を歩いてきたんだろうな」
「人に見せたくない醜い自分を、心の中に住まわせていないのだろうな」
と感じ、そのまぶしさに打ちのめされる。

他の人がどう感じるのかは知らない。
少なくとも私は、私に無い健全さの前に出ると、しっぽを巻いて「キューン」とボスにへつらうワンコのような情けない声を出したくなる。
一生かけても、その健やかさ、明るさは私の手に入らないのだと思い、どんどん卑屈の沼に沈んでいく。

かつては、そんな時
「あー、もう、やめたやめた!土台が違うんだもん、努力なんかしたって無駄無駄!諦めろ。才能もない、育ちもひねくれてる、他人を惹きつけるものなんて何も持ってないんだから、書いて身を立てようなんておこがましいことを考えるな」
と自己否定の嵐だった。

才能がないくせに、努力も嫌いなので、簡単に楽な方に転ぶのだ。

今は少しだけ変わった。
沼の底に着いたと感じたら、

「でも生きてるじゃん」

と、まず思うようにしたのである。
すると、その続きが心の中から聞こえるようになった。

「夜も眠れるし」
「ご飯も美味しいし」
「立って歩いて、好きなところへ行けるし」
「子どもたちは無事に巣立ったし」
「海は綺麗だし」
「無理だと思っていた書く仕事で、わずかずつでも、お金がもらえるようになってきたし」

「でも生きてるじゃん」と唱えると、無いもの、できないことより、あるもの、できることに目を向けられるようになるのである。

相変わらず、健やかさは羨ましいし、妬ましいのだが、自分の暗部はネタの宝庫だと思えるようにもなった。
私に、あの眩しい文章が書けないように、私にしか書けないことだって、きっとあるはずなのである。

転換のきっかけは鬱の発症だが、あれも悪いことばかりではなかった。
何しろ、鬱を抜けると自然と脱皮している。

「でも生きてるじゃん」は、とても大事なことだった。
死んだらできないことを、今味わっている。
死んだらそこで止まってしまう変化を、今体験できている。

健やかで眩しくてキラキラしていなくても、生きることならできる。
そして、死んでしまった人たちには、絶対に2度とできないことが「生きること」なのである。

天災、戦争、事故。
人が死ぬニュースばかりで嫌になる。
そこに想いを馳せ過ぎると、苦しくなる。

「でも生きてるじゃん」と思って、乗り越えていくしかないよね。
まだ生きているのだから。

**連続投稿88日目**

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