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「二次元美少女イラスト」という脱構築主義的抽象画

絵が行き詰っている。
絵と言っても二次元の美少女イラストのことだが「これ以上可愛く描けないのではないか」という閉塞感を感じる。

そこで、某イラストレーターのイラストを見たときに「脱構築」の大切さがわかってきた気がするのでまとめる。



脱構築主義とは

脱構築とは、考え方のひとつであり、その意味はwikipediaに簡単にまとめられている。

・ある対象を解体し、それらのうち有用な要素を用いて、新たな、別の何かを建設的に再構築すること。
フランス語のdéconstructionには、たんに「解体」という意味が付されており、しばしばその場合のみに使用されることもある。だが「脱構築」というときには、積極的に意義を見出すために行われる作業とみなされる。

wikipediaより

脱構築という考え方の簡単な例としては、かなり雑な例えだが、ピカソの絵とかを想像してもらえたら良いと思う。
現実の、見たままの情報をそのまま描く(構築する)のではなく、描く対象が持つ性質を具体化(解体)して、その中のいくつかの要素をピックアップして描くというようなかたちだ。

ピカソの「マンドリンを弾く少女」。首筋やデコルテの官能的な直線を軸に、女体の曲線と直線をピックアップし、調和させながら描いた傑作。だと思う。もっとわかりやすいキュビズム初期の、建築の絵を以前展覧会で見たのだが、ネットに落ちて無かった。


言い換えれば、18世紀のオランダ絵画を始めとする写実画みたいに目で見たままの対象を、可能な限り精密に、そのままキャンバスに再現しようとするのが構築主義であり、リアルに表現する技術が広まり、飽和し、もう画家たちが研鑽すべき表現技法の、成長の余地が無くなったところを打破しようとした運動のひとつが脱構築主義なのである。(ポストモダニズムに近い)

『喫煙とゲームを楽しむ紳士』, ディルク・ハルス
18世紀のオランダは黄金時代とも言われ、経済的に裕福であり芸術分野も隆盛を迎えていた。この当時の作品は写実画の歴史のピークのひとつと言っても良いだろう。

18世紀頃は写真とか無かったので、とにかく現実に近いかたちでキャンバスにペイントするのが重要だったと思われるが、ピカソが抽象画を描き始める20世紀頃には、もう写真という文化が大衆に浸透していたので、視覚情報を記録に残すなら、もう写真で良いじゃん!となってきていたと思われ、つまりいかにリアルに描くか、ではなく、絵画を描くために、"よりリアルに描くこと"以上の価値を模索する必要が出てきたのだろう。

ピカソは幼少期からずっと絵画を描き続けた人間であり、それくらいボンボンで恵まれていたわけなのだが、残されている作品を見る限りでも、幼い頃からめちゃくちゃに写実画が上手である。

16歳の時の作品。既に世間的な評価を得ていた。

ピカソが居た頃のパリといえば、それはもうめちゃくちゃの黄金時代で、しかも絵画文化が飽和した状態であり、ピカソの周りにはセザンヌやらモディリアーニやら老若問わずレジェンド画家が跋扈していて、そういった環境にずっと身を置いていたから「芸術の最先端」を常に模索していくことができたのだと思う。

そして、ピカソはキュビズムという新境地を開拓するわけだが、こういった運動は、「守破離」に近いものがあると思う。
視覚情報を忠実に模倣し、視覚情報という絶対原理を忠実に守る段階から、そういったルールを打破し、「人間が描く絵画」としての付加価値を高める段階に進化した、と言えるのではないだろうか。


写実画隆盛の時代も、ただ闇雲にその辺の草木を描いていた訳ではない。その画家その画家の、「良い」と感じた構図や色合いを切り取っていたのである。その「良さ」だけを抽出し、キャンバスに表現したのが抽象画であると言える。
味の素みたいな化学調味料の発生に近いかもしれない。「旨味」だけを抽出して最大化したものが抽象画なのである。

まあ、こういった文脈から発生した表現を体系化したのがピカソやブラックなどの同時代の画家なのであり、視覚情報を超えた良さの表現というもの自体は更に過去から散見されるものではある。

特にピカソ達はアフリカ芸術に多大な影響を受けたとされ、まあ、見るからにアフリカの芸術的工芸品は写実を超えた表現である。

如何にリアルに描くか、に苦心していたパリの画家達にとっては、こういった方向性の芸術は衝撃的だったのだろう。



脱構築としての、けもみみ文化

4月に国立民族学博物館で展示されていたペルーの首長人形は、これは現代のものであるが、現実的でないくらい首が長く、アンデス山脈のアルパカに着想を得ているとされている。

4月頃に大阪の民博で展示されていた。作家名が明示されていたはずだが、失念してしまった。
有名な作品な気がしていたが、ネットにはほとんど情報が無かった。
アルパカ。なんとも言えない可愛さ。モフりたい…

私の解釈では、アルパカが可愛いから、そのアルパカの可愛さを分解して、そこから抽出した可愛さ成分を人形に付与したのだと思う。この場合はその可愛さ成分とは「首の長さ」が該当する。首が長いのが可愛いんだ🥰と作者が考えていて、世俗的な言い方をするのであれば「ケモナー」なのだと思う。

日本文化で言うなら、この首長要素は、ケモ耳に該当するだろう。
ケモ耳の発明者は、このアンデスの人形作家と同じようなプロセスでネコの可愛さ要素を分解した結果、ネコの耳を抽出したのだ。

漫画作品での最初のケモ耳を発明したのは手塚治虫らしい。すごいぜ。
しかし、ケモ耳というか、ケモノ成分が8割くらいだ。手塚先生はケモナーだったに違いない。
ギャラクシーエンジェルのミントちゃんもしれっとケモ耳だった。可愛い。

話を戻せば、日本のアニメ風イラストというか、二次元少女のイラストも脱構築主義が生み出した潮流だと言える。
不自然に大きい目、細長く描かれる肢体は女性の魅力の解体の結果ということだ。

そして二次元美少女イラストを描くことを生業にする私自身も、そういった意味では脱構築主義画家だと言えるし、キュビズムとは違う方向に昇華した抽象画の作者と言えるだろう。


○○○


まとめ   脱構築は、終わらない

脱構築のwikipediaには以下の記述もある。

脱構築という思想においては、「脱構築という思想そのものもまた、つねに脱構築され、つねに新たな意味を獲得していく」ということを意味しており、それぞれの哲学者によって、またその発言の機会によって、主張の主眼が異なる。だが、この不定形さを受容することそのものが、脱構築である。

簡単に、哲学(の歴史)は静的な構築物ではなく、その全てが現在進行形のダイナミズムと化すのである。

wikipediaより。

二次元イラストも、大量に生産・消費されていけばそのうちノウハウが確立され、そのノウハウという絶対原理に従うだけの構築主義的手法となるのであり、やはり構造の解体と抽出を行い、つまり打破が必要なのだ。


私は、まあアマチュアも良いところなので写実画などは全くもって描けないのだが、表現の文脈に従うのであれば二次元美少女イラストに更に付加価値を付けられるのだと思うし、抽出が上手くいけばより可愛いイラストを描くこともできるのかもしれない。


まず、首を長く描いてみたりして、ね……


※修正が必要と思われる記述がありましたらコメントでご指摘ください。

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