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みんな記録を取ればいいと思うよ

著者:加藤文、ハラオカヒサ

小学生の偉業から学ぶべきもの

2021年、小学生の地道な努力によって成立した論文や観察記録が世界的に高く評価され、ニュースで報道されたことで話題を呼んだ。

高く評価されたのは、日本に生息するカブトムシは完全な夜行性という定説を覆した埼玉県の小学6年生の観察と記録、青森県平内町の小学生が55年間ハクチョウの飛来と旅立ちを観察した記録だ。それぞれ論文となり前者は小学生が第一著者としてEcologyに、後者は研究者が論文にまとめData in Briefに掲載された。

この2例は事実を積み重ね記録することが科学であるのをはっきりと示している。

日めくりとカレンダーと余白たっぷりのカレンダー

この記事を書 いている2021年7月末、日本国内が新型コロナ肺炎の蔓延に巻き込まれて1年半が経過したことになる。たった1年半前のことなのに多くの人がコロナ禍初期の2020年1月から2月にかけて何があったか、そのとき世論や人々の日常がどのようなものであったか記憶が曖昧になっている。それどころか数ヶ月から数週間前のできごとさえ記憶されていないありさまだ。

記憶のあやふやさといえば東浩紀の以下のツイートだ。

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「なんでワクチンを早めに確保して五輪に備えなかったのか」という認識は、やろうと思えば早めに確保できたはずと確信しているため生じたものだ。いくらなんでも不可能であると筆者らは知っていたので、ハラオカヒサはその旨をツイートした。

なぜ不可能かは下記の記事にまとめてあるので読んでいただきたいが、東浩紀ほどの人が1年前のことすら忘れているか知らないため「早めに確保して五輪に備えられた」と考えていることに愕然となった。なにせ彼は「マジわからん」状態なのだ。

この1年半は予期せぬさまざまなできごとに翻弄され続けた。このため言論人でさえ今日から明日へ日めくりの暦を一枚また一枚と破り捨てるようにして迎えていたのかもしれない。「明日になれば今日1日もゴミ箱行き」とはまさにその日暮らしであり、東浩紀でさえ連続性のない日めくり的意識に陥らざるを得ないのがコロナ禍の意識なのだろうか。彼が過去からそうだったとしたら、これはかなり問題ではあるが。

___XXひめくり

日めくりの暦とカレンダーは違う。カレンダーのなかでも1月から12月まで連続して、日付ごと余白が大きく取られているならメモを書き込めてとても便利だ。便利さは、出来事をひとつひとつ書き込めるためだけでなく、出来事の連続性や関連がわかるからに他ならない。連続性や関連を知るのは非常時こそ大切なはずだが、コロナ禍だけでなく東日本大震災と原発事故のあとも出来事がとっちらかったままだ。

出来事がとっちらかったままでは、これまでの10年とこれからの10年を振り返ることすら不可能になるかもしれない。大げさだろうか。いや、日本を代表する言論人さえ、1年前からの経緯を「マジわからん」と言っているのだからこのままでは私たちは歴史を見失うかもしれない。

誰にでもできるけど誰もやらないこと

記録は軽視されている。言論(言葉や文章によって思想を表現し発表すること)が重視され、淡々と記録を取り続けようとする者はほとんどいない。

記録は事実を整理して書き留めることに過ぎず誰にでもできるものとされ、独自の主張をする人のようには目立たず評価されることもないと思われているからだ。名を上げ、評価され、賛同者を集めて力とし、この力によって有利な立場に立ちたい人々は記録の整理などせず、とにかく大きな声で叫びまくる。

だが記録は事実を整理したものとして科学になり得るが、事実に基づかない言論は科学ではない。冒頭に紹介した小学生が手がけた記録と研究を思い出せば、いくら大きな声で妄想をがなりたてられても、記録が事実を突きつければ少なくとも対等な立場、大声にかき消されない立場に身を置くことができるのがわかるだろう。

どれほど高名な学者が「日本のカブトムシは完全な夜行性しかいない」と言ったとしても、柴田亮さんの記録と論文を示すだけですべてが終了する。

カブトムシの研究は理科系だったが、人文系でどのくらい対等な立場に立てるかといえば東浩紀のツイートと筆者二名の事実の指摘で説明できる。東は何らかの不快感を覚えたのであって言論の場から逃げたのではないかもしれないが、ブロックの後この話題は途絶えたままだ。

あずま

誰にでもできることなら、記録を取れば誰もが事実という武器を手にできるのを意味する。事実は散在しているから、これらを手元で整理しなければ経緯を理解できない。とはいえ落穂拾いをするようにできごとを集めて時系列にならべるのは根気さえあればさほど難しいものではない。ただし根気よくできごとを集めて整理して記録を取らないなら、散在しているできごとは意味をなさないままだ。

科学を忘れた人文系の学問や言論は滅びたほうがよい

悪目立ちする人文系の言論では恣意的に「事実」をつくりあげたり、ありえない結論から論を説き始めるのがまかり通っている。メディアの報道も似たり寄ったりだ。ここまで悪意がなくとも東浩紀のようにたった1年前のできごとさえ確認しないまま思い込みから話をはじめる。

理科系分野を考えてみよう。恣意的につくりだされた「事実」やありえない結論から唐突に論がはじめられたらどうなるだろう。世間話であっても「それは違う」と指摘されるだろうし、意に介さず話が続けば反論続出、事実を認めないまま立ち去るなら信用ならない人物とされる。だが前述のように人文系ではまかり通っている。

このような学問、言論、報道は滅びるべきであると(人文系の)筆者は思うが、たちどころにに一掃できるものではない。上野千鶴子は“自分に不利なエビデンスはもちろん隠す。それが悪いことだと思ったことはありません。”と発言しているが、この大御所と一派を一朝一夕でどうにかできるとは思えないのである。

だから私たちは地道にできごとを集め整理して記録するのだ。宮刑に処され牢に繋がれた司馬遷が約130篇536,500字にのぼる『史記』を記したように、現代のできごとを人それぞれの興味と関心のもと拾い集める。司馬遷のように歴史に名が刻まれるかどうかまったくわからないが、その人は司馬遷同様に勝者となり得る可能性を手にするだろう。

ハラオカヒサの父は、親類の若者が「車に傷をつけた」とチンピラから駐車場で因縁をつけられ脅迫された際に、できごとが発生した日時、時刻、天候の前後関係と当日の若者の行動を明らかにしたうえで、平面図と立面図を作成し傷の位置と形状と照らし合わせて、どのようなことがあっても車を傷つけるのは不可能なのを証明した。チンピラのもとに乗り込んだ彼は、二度と因縁をつけないと念書まで書かせている。

いまどきの人文系の学問や報道、社会運動に巣食う宿痾と「車に傷をつけた」と騒ぐチンピラは似ている。そのものであると言っても過言ではないかもしれない。警察さえまともに捜査しないまま因縁がまかり通りそうになったとき状況に風穴を開けたのは記録であり、事実の積み重ねと論理的思考だった。こうして現実を変えて行くほかないのだ。

付録 コロナ禍カレンダー

(2021年7月31日段階の各バージョン)

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