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片靴拾い

 帰り道、同じところに同じ物が落ちている。駅から家まで歩く途中、河原の土手の遊歩道の、ちょうど真ん中あたりにぽつんとある。供え物の類ではないのが明らかなのは、片方の靴だからだ。正確には同じ物ではなくて、毎日違う種類の靴が、道を歩いていてそのまま脱げたみたいに「明日天気になあれ」の「晴れ」の形で落ちている。子供の靴だったり、女性物のサンダルだったり、ビジネスシューズだったりする。

 ある日、俺はそれを拾ってしまった。その夜は酩酊していた。元より酒の強い方ではないのに、客の残したボトルのワインを分けてもらった上に、河原で缶ビールまで飲んだのだ。歩き出した先に落ちていたのはこれまで見た中で一番大物の、長靴だった。アウトドアブランドのロゴ入り、足首が少し細くなっていて、ふくらはぎの部分は緩やかなカーブを描く洒脱な物で、長靴と言うよりレインブーツと呼ぶ方が相応しく感じた。そのふくらはぎのラインが、あろうことかあの女の脚を彷彿とさせた。女は俺を見下している。いつも俺に「ありがとう」と言う。俺が給仕した海老のフリットだのアクアパッツァだのを見て、美味しそうねなどと男に言い、それから俺を見上げて「ありがとう」と言うのだ。その視線は俺を苛立たせた。女の連れている男はいつだって小綺麗な身なりをしていた。今日だってあの女が店に来たから酒を煽ったのに、こんな長靴、と俺は深い紺色のそれを蹴飛ばした。すると向こうから歩いてきていた男が立ち止まって俺を見た。見たと言うよりは睨みつけていた。俺は居たたまれず長靴を拾い上げ、男の方へそれを差し出した。この男の物だと思ったのだ。しかし男は首を小刻みに横に振って後退りしたかと思うと、弾けるように走り出し、土手を駆け下りて住宅街の闇に消えていった。一度拾い上げてしまった長靴を、俺は何故だか捨てることができずに持ち帰った。そして玄関の靴箱に寝かせて仕舞った。スニーカーとサンダルの二足だけだった靴箱は急に狭苦しくなった。

 それからも片方の靴を拾うことになった。一度拾ってしまったら、通り過ぎることができなくなり、ほとんど毎晩、つまり仕事のある週六日間、俺は靴を拾い続けた。靴箱はすぐにいっぱいになった。誰かの履いていた女物や子供の靴が並ぶと、まるで家族がいるみたいな様相だった。靴箱に入らない分は、見返すことのない日記や卒業アルバムなんかを捨てて、段ボールに詰めてクローゼットに何箱も詰め込んだ。

「付け合わせのインゲン、一つはアスパラに変えられますか」

今入れたオーダーを作り始める前に、急いでキッチンに伝える。

「もちろん」

出てきた料理を素早くテーブルへ運び、年配の女性の方へアスパラの皿を置く。

「あれ?私とあなたの、ちょっと違うね」

連れ合いの若い女性の皿と見比べて言う。

「以前いらした際にあまりお好みではなかったようでしたので、少々変えさせていただきました。もし同じ物がよろしければすぐにお作り直しいたします」

「あ、そういうこと。いいのいいの。インゲンって噛むとキシキシいうから嫌いなのよ」

「すみません、母は昔からそうなんです」

若い方が恐縮する。

「何かあればいつでも仰ってください」

俺は笑顔で前菜の皿を下げた。二人の、よく覚えてるわね、ウエイターの鑑だよ、などと言っているひそひそ声は、ちゃんと聞こえている。

「お前はやっぱりすごいな」

下げた皿を受け取りながらイタリア帰りの料理長が笑う。

「今までのお客さん、もしかして全部覚えているのか?」

いえいえまさか、と答えるが、それは嘘だ。本当は全部覚えている。客の顔、声、注文、残した料理、食後のドリンク、そこから推測される好み。

働き始めた頃、ある客のクワトロフォルマッジにはちみつを添えた。食後にその人に呼び出され、この店では頼まない限りはちみつは出していないはずだ、なぜ今日はあったのかと問われたので、以前いらした際にオーダーなさっていたのでと答えたら、俺はお前に今まで注文したことはないはずだとさらに詰問された。先日食器をお下げした際にはちみつのお皿がございましたのでお付けいたしました、差し出がましいことをいたしまして申し訳ございませんでした、と頭を下げた。初めてのクレームに俺は謝罪の姿勢のまま唇を噛んだが、その人は笑って、素晴らしい、よく見ているねと言った。これからは君にオーダーすることにしよう。

後からわかったことだがその人はこの店のオーナーだった。実際、それ以降オーナーは俺でないと注文をしなかったし、給仕たちの間で客のことを尋ねるならまず俺にという暗黙知が出来ていた。

「なんだか痩せたみたいだ。ちゃんと食ってるか?」

 靴を拾い始めてしばらく経つと、料理長はそう言って賄いのアラビアータやプッタネスカの量を多くしてくれた。接客のため、にんにくこそ抑えられていたが、トマトやバジルの香りのおかげでぺろりと平らげた。それでなくても俺はよく食べていた。靴を拾い始めてから食事の量も回数も増えていた。朝食や昼食を抜くことはなくなっていたし、空腹を抑えられなかった。学生の頃だってこんなには食べていなかった。それなのに料理長の言う通り、俺は痩せていた。体重計はなかったが、頰のこけていくのはわかった。反対に靴は増え続けていた。クローゼットでも足りなくなって、1Kの小さな部屋の隅に積み上げていって、狭苦しくなったのでとうとうソファをリサイクルショップに売り払った。それなのに、靴は一足として揃いはしなかった。全ては片方だけだった。

揃った靴が欲しくてたまらなくなって、どうしようか考えた。考えている間も靴を拾い続けた。それで全ての靴の写真を撮って、オンラインのフリーマーケットにその画像をアップロードして、ブランド名とサイズと「この靴のもう片方を持っている方、ご連絡ください。買います」という文を書き記したが、誰一人として連絡をくれる者はなかった。毎日、その日に拾った靴の写真を撮り続け、メッセージが来ていないことを確認し続けた。全身の肌がひりつくように痛んだ。この世界のどこかには、もう片方の靴があると信じたかった。しかし、だんだんとその気持ちは萎んでいって、やがて写真を撮ることもやめてしまった。今やキッチンも靴の山で埋もれていた。それでもメッセージだけはチェックし続けていた。

 ある日とうとう一通、連絡が来た。

「違うかもしれないですけど、これでしょうか?」

 その人は写真を添付していた。両足揃った赤いハイヒールで、確かにその靴を見たことがあった。でも、どこにあるのだかすぐにはわからなかった。俺は初めての手掛かりに有頂天になって、家中の靴の分類を始めた。まず男物、女物、子供の物、男女わからないものに分け、それから運動靴、サンダル、ブーツ、ビジネスシューズとパンプスに分け、迷う物は気分でどれかに混ぜ、さらにそれらをサイズ毎にまとめて箱に入れた。作業は主に休日を使ったので、一週間以上かかった。分類したところで揃いの靴は一つもなかったが、果たして、赤いハイヒールはあった。ピカピカのエナメルの靴だった。最後に手をつけた靴箱にしまってあったので、発見が遅くなってしまった。俺ははやる心で何度も打ち間違えながら、スマートフォンに「その靴です。ぜひ片方を譲っていただけないでしょうか」と打ち込んだ。デパートで良い靴を一足買えるくらいの値を添えた。しかしそれから四日間、返信は来なかった。俺は待った。干からびてしまいそうだった。耐えきれずに催促のメッセージを送ってしまい、激しい後悔に捉われた。もしこれで気を悪くされたらもう二度とチャンスは来ないかもしれない、なんと馬鹿なことをしてしまったのだ、というところで返事は来た。「ごめんなさい。忙しくて見ていませんでした。振込が確認でき次第送りますね」とあり、日が変わろうという夜中なのにコンビニに走って即座に振込手続きをした。翌週に届いたハイヒールを見て、俺は泣かずにはいられなかった。それは俺の元にあるのと同じ右足の靴で、エナメルの色も、ヒールの高さも違っていた。世界は暗転し、俺は分類した箱が見えなくなるほど靴を拾って積み上げ、もう二度と種類に分けることも写真を撮ることもしなかった。

 料理長は、近頃俺に声をかけなくなった。料理長だけでない、店の従業員は俺の存在を明らかに煙たがっていた。賄いは増やしてくれるどころか以前より明らかに少なくなり、ひどい時には俺の分が用意されない日もあった。あの女だけは変わらず「ありがとう」と言うので、いっそこの女の頭から水の一杯でもばしゃりとかけてそのまま出ていってもう二度と店の敷居を跨ぐまい、とまで思い詰めた。でも、しなかった。

 俺は時々、レインブーツを出してきて、そのラインを撫でた。ある日空腹に耐えられなくなってつま先を齧ってみたが、靴のゴムなど食えたものではなかった。仕方なしに俺は長靴の底に錐で小さな穴をいくつも空け、土と苗木を買ってきて、長靴にバジルを植えた。ベランダとは名ばかりの小すぎる空間は、植物を置くと見違えてベランダらしくなった。レインブーツに根を張ったそれはきらめく日差しの下で見る間に育ち、青々しい香りを撒きちらした。千切って口にしてもバジルだけでは飢えは満たされなかった。footのbootにrootでfoodと口ずさみながら俺はその美しい葉を全部採集した。それをビニール袋に詰めて潰れないように気を遣いながら店まで持っていき、料理長に渡した。

「使ってください」

 料理長は眉をひそめて、

「お客さんには出せないな」

とだけ言った。その日無言で出された賄いは二人前のジェノベーゼで、相変わらずにんにくは控えてあった。俺はそれを残さず食べたが、それでもまだ腹が減っていた。

 俺の履く分以外は、一足も揃わなかった。もうベッドも売り払って、俺は靴の合間に僅かに見える床に体を横たえて休んでいた。

 休日の昼下がり、思い立って河原へ出かけた。拾わない日には何があるのかを見にいったのだ。するとそこには靴があった。拾おうとしゃがみこんだ時、

「あ」

と誰かが言った。目を上げると料理長くらいの歳の男が立っていた。

「まだ、拾っているんですか」

「靴のことですか」

 俺の声は元気だった。店の外では久しく声を出していなかった。俺には声だけが残されているのかもしれないと思った。

「そうです、それのことです」

 男は顎で俺の手にあるスニーカーを示した。

「もう随分になるでしょう」

 言われてみれば、俺が靴を拾い始めてから、もう何年も経っていた。毎日違う靴を拾って、部屋にはあんなにも靴が積み上がっているというのに、時間がそれほど流れているということを初めて意識した。何も応えずにいると、男は 「なぜ拾うんですか」 と問うた。

 俺は混乱した。そこに靴が落ちていて、拾わないということは考えられなかった。なぜ息をするのですか、なぜ働くのですか、なぜ生きるのですか、と訊かれるのと同じくらい、その質問は俺をかき乱した。その俺を見て男は言った。

「気持ちはわかります。でもそろそろ、次に譲ったらどうです?あなたは消耗しておられるようだ」

 言われてようやく、その男が最初のレインブーツを拾った日に見かけた男だということに気付いた。そしてこの男が俺に譲ったのだということに閃くように思い当たり、混乱はさらに縺れてもんどり打って、俺は狂ってしまうのではないかと思われた。男は哀れむように俺を見て、かわいそうにと言うと、軽やかに土手を下ってしまった。俺は追いかけなかった。男が真っ直ぐに路地を歩いていくのがよく見えた。あの時と違って今は昼で、すべては太陽に照らされていた。男ははるか向こうの角で左へ折れて、それきり見えなくなった。俺はスニーカーを胸にかかえて河原に降り、うずくまった。桜の花弁が一枚きりはらはらと足元に落ちたが、見渡しても桜の樹はどこにも見つけられなかった。俺は毎日春キャベツと桜えびの前菜を提供しながら、春にさえ頓着していなかったのだ。心地良い陽を浴びて、案外と簡単に意を決めた。

 決めたあとは早かった。帰り道にコンビニエンスストアで買った大きなゴミ袋に、まず手に持っていた運動靴を入れた。リビングにある靴を一つずつ拾い上げて袋に詰めていく。窓を開けて風を通し、ゆっくりと、欠伸すらしながら放り込み続けた。実に単調な作業だった。唯一気にかけたことは、尖ったかかとが袋を破いてしまわぬように、ピンヒールを入れるのは下の方に他の靴を詰めた後にすることだった。袋はすぐにいっぱいになり、リビングの靴を片付け終わる頃には、もう一度コンビニへ走って袋を買い足す必要があった。

 キッチンにあった分を全て詰め終え、クローゼットと靴箱を残すのみになった。その時、俺は訝しく思った。いつもと何かが違うのだ。もちろん靴が今にも捨てられんという状態は異常だった。でも、その晴れがましさとは別の清々しさが部屋に充満していた。その正体はわからなかったが、ともかくクローゼットも靴箱も片付けた。

 全ての靴を詰め終えたと思ってベランダに出た。するとそこには月明かりに照らされたレインブーツがあった。バジルはとうに枯れていて、乾いた土だけが入っていた。とりあえず余ったビニールに土をざらざらと出し、汚れた長靴を風呂場で洗った。ついでにシャワーを浴び、長靴に足を入れて踏みつける要領で中まで洗った。じゃぽじゃぽと音が反響する。拾った靴を履いてみたのは初めてだった。この靴の持ち主はこれを履いてどこへいったのだろうか。鏡に映っている俺は裸に左足だけ長靴を履いていて無様だった。でも、持ち主だってもう片方だけを履いていなくなったはずだ。できるなら全ての靴達が行ったことのある場所へ俺も行ってみたいと思った。そしてできるなら相棒と共に捨ててやりたいと思った。でもそれは無理な願いだった。

 風呂場を出ると長靴をタオルで拭き、同じタオルで体を拭いた。布を貼ってある中面はドライヤーで乾かした。最後に俺はその美しいラインを一撫でして、他の靴の上にそっと置いた。最後の袋の口を固く結ぶと、俺は両手に二つずつ靴の袋を携えて、ゴミ捨て場と家を何度も往復した。

 残ったのは空っぽの部屋だった。窓から陽が差し込んだ。朝が来ていた。俺は急に激しい空腹に襲われて、近所の二十四時間営業の牛丼屋で、牛丼屋なのに千円札を二枚も出して滅法食べた。今日から新しい人生を始めようと思った。春は何かを始めるのにぴったりの季節だからな、と俺は声に出して言っていた。他の客は誰もおらず店員だけが気味悪そうに俺の方を向いたので、急いで味噌汁を飲み干し、ご馳走様と言って外へ出た。帰り着いた広々とした部屋の真ん中で大の字になって、すぐに眠りに落ちた。

 夕方の出勤時に靴が落ちていたことはなかったが、俺はあえて遠回りをして右岸を通って駅へ向かった。何もかもが好調に運んでいた。大体、なんで靴なんか拾い続けたのだろうと不思議だった。同時に、俺が拾わなければ一体誰が今日からあの靴を拾うのかという思いもあった。男が言った「譲る」という単語のせいだろう。上流の空は暮色になり始めていたものの、ここはまだ明るく昼の色だ。左岸もよく見えたが、川幅は広く反対岸に靴が落ちているのかどうかはわからなかった。

 その日の女は妙だった。まず、一人で来ていた。サラダとパスタの簡単な食事とハウスワインを一杯注文したきり口をきかず、俺に「ありがとう」を言わなかった。男の前では店員をも蔑ろにしないステキなワタシを演じていたのかと、俺は胸の内で女の顔に唾を吐いた。女は食後のコーヒーを片手にちらちらと俺の方を見ていたが、それでも結局は口を開かぬまま会計を済ませて出ていった。しかしそれでは終わらなかった。

 今日は賄いが出た。大盛りだった。料理長を見ると、昨日までは目を合わせすらしなかったのに、にやりと笑いながらウインクして見せた。俺は食べた。こんなにもうまいと感じたことはなかった。添えられたパンでトマトソースを絡めとって皿から赤が消えるほど食べ尽くした。その皿を片付けていると、

「なんだか今日は調子良さそうだな」

と声をかけられた。料理長がトマトを二つ手に持って後ろに立っていた。

「そうなんです、ちょっといいことがありまして」

「あの女性か」

「え?」

「ほら、あの窓際に座っていたお客さん。お前のこと気にしてたの、ここから見ていてもわかったぜ」

 良く切れる細いナイフで美しく均等にカプレーゼ用のトマトを切りながら、料理長はキッチンから見える席を指した。今は誰も座っていない。

「何言ってるんですか、お客様ですよ」

 料理長は笑った。

「生きていればどんなことだって起こるからな。もしチャンスがあるなら捉えるんだぞ」

 俺はその時、料理長のコック帽から見えているかつて黒々としていたもみあげが白髪交じりになっていることに気が付いた。

「なんにせよ、うまくやれよ」

 料理長は出来上がったカプレーゼを俺に渡した。

「三番テーブル、よろしく」

 シフトを終えて、裏口から店を出ると、驚いたことにあの女が立っていた。

「あの」

「こんばんは。いかがなさいましたか」

 俺は今しがた脱ぎ捨てたばかりの営業用の笑顔を即座に付け直して応じた。

「これを貴方へ差し上げたくて」

 女は俺に紙袋を差し出した。

「もしもご迷惑でなければですけれど」

 不信に思いながら、でも料理長の言葉も浮かべながら受け取った。

「えー!ありがとうございます。開けていいですか。嬉しいな、なんだろう」

 紙袋を覗き込む。こんな風に俺の方が女に礼を言うなんて、と内心おかしかった。中に入っていたのはリボンを巻いた透明な箱で、さらにその中に丸っこい瓶が入っていた。

「お好みの香り、わからなかったものですから」

 俺は女の顔を見た。そして、この瓶の中身は香水であることを理解した。それを贈った理由は俺のにおいであること、そのにおいの原因は膨大な数の靴で、昨日感じたあの清々しさはビニール袋と風にもたらされた、臭気の消失によるものだったことも、理解した。なくなったはずの獣の小屋のようなにおいが、鼻の奥に込み上げた。

「わあ、僕このブランド大好きなんです」

 努めてにっこりした顔を作り出した。培ってきた給仕の技術は、女を安心させたようだった。俺は続けた。

「お礼をさせていただきたいので、是非お食事をご馳走させてください。いつも召し上がっていただいているのでイタリアンはなんですから、和風の創作料理はいかがですか」

 相手が聞き損ねないようにゆっくりと、家の近くにある店の名前を言った。女はその店を知っていた。

「一度行ってみたかったんです。でも」

 女が断りの言葉を口にする前に、

「もしもご迷惑でなければですけれど」

と先ほどの女の口調そのままに言った。

「明日の夜はオフなので、夜九時に、その店でお待ちしています。もしご都合が悪かったり、断りたくなったらいらっしゃらなくても大丈夫。一人でも気兼ねなく食事できる店ですから」

 女はそれ以上何も言わなかった。

「では、また明日…ではないかもしれませんが、また明日会えたら嬉しいですね」

と言って俺は歩き出した。女は追っては来なかったが、後ろからありがとうございます!と叫んだ。俺は振り返って手を振った。

 帰り道は、左岸を通った。曇り空に星は一つも見えず、薄い月明かりの中で俺は目を凝らす。予感で心臓が早鐘を打った。いつもの所に落ちている物を視認できる距離まで来て、予感は現実になった。それは見慣れた長靴だった。紺色で、アウトドアブランドのロゴが入っていて、ラインが美しく、でも、それは右だった。もうあの長靴が部屋にはないことを思い、燃えるゴミの回収が水曜と金曜で今日ではないことを思い、そして昨夜あの長靴を左足に履いたことを思う。抗えない強い欲求が俺を動かし、やめろという理性とは逆に両手は長靴に伸びていった。その時だった。手にかけていた香水の紙袋がずるりと落ちて当たり、長靴はぱたんと倒れた。瞬間、勢いを取り戻した理性の方が、長靴を元通りに立たせて、紙袋から箱を取り出し長靴に滑り込ませ、俺はたちまち脱兎のごとく走った。息が切れたが走るのをやめなかった。家の前のゴミ置場には瘤でできた幽霊のような山があったが、そちらを見ないように走り抜けた。手元を狂わせながら何度も鍵を挿し直して開けたドアを後ろ手に締めて、靴のない玄関で、俺は両足揃っている自分の靴を見下ろして顔を覆った。何も入っていない紙袋を靴箱の上にある飾り棚に立て置いて、この袋が埃をかぶっても動かすことはないだろうと思った。俺は風呂に湯を張って、身体中を何度も何度も洗った。

 次の日、定時通りに出勤した。創作料理屋へは行かなかったし、そもそも俺の週一の休日は廃棄作業で使ってしまった後だ。一方的に宣言した夕食へあの女が向かったのか、創作料理屋へ行くためにはあの道を通るのが一番早いことに気付いたのか、そしてあの長靴を拾ったのかどうかはついぞわからない。でも俺はもう帰り道で片方の靴を見かけることはなかったし、女が店に現れることもなかった。俺はソファを買い直したが、それは預かり物のように他人行儀で、次の給料が出たら買う予定だったベッドはやめにした。

 それから一度だけ、俺に片靴拾いを譲った男が橋を歩いているのを見かけた。男は犬の散歩をしていた。俺はソファに寝転んで、男の犬が欲しいと思った。もしここに犬がいて、このソファに小便をかけたなら、と俺は考えずにいられない。その獣のにおいを想像せずにいられない。そうすれば俺はこのソファを気に入ることができるだろう。その後はベランダにバジルの土をまいて、そこを犬の便所にしてやればいい。でもそれは靴ではなく犬で、犬からバジルは生えないし、第一このアパートはペット禁止なのだ。

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