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たかが趣味、されど心は病む。


 趣味で心を病む人がいる。
 あたいの周りでも、趣味で心をこじらせた人は今までたくさん見受けられた。

 たとえば、

「推しが脱退した、引退した、解散した」だとか。
「趣味でお金が飛んで貯金ができない、生活が逼迫してる」もよく聞く。
「趣味を続ける時間が無い」とはどの世代にも共感を集めることだろうし。
「尊敬してた人が不祥事を起こした」なんて昨今ではよくあることで。
「趣味を理解してくれる仲間がいないから寂しい」だったら昔から言われる普遍的なことだ。

 あたいには趣味と言える趣味が無かったのでそれらに深く共感はできなかったけれど、おのおのの嘆きを聞いていると、きっとそれらがみんなにとって生活のよりどころだったのだろうと嫌でも伝わってきた。大層だけど生きる糧と言い換えてもいいかもしれない。

 人は生きるために食う寝るところが必要だけれど、寒さと空腹さえ防げたら生きられるかというとそうでもなくて、寂しさや暇を埋めるために、人付き合いと趣味で心の余白と余暇をつぶす。よりよく生きるためにつぶさないとならない。そうやって生き延びる生き物だと思う。それは寂しがりなあたいも実感を伴って知っているつもりなので、趣味も人間関係と同列にある重要な要素だと理解していた。だから心底苦しんでいるんだろうなぁと思い馳せてみんなの嘆きを聞いていた。

 こうやって考えると、生物としてあまりに賢くなっても、相変わらず生きるのは難しいことなんだなぁと感じたりもする。野生の生き物の多くが今日食うもののために駆け巡っているけれど、対してこんなに飢えの少なくなった人間の社会でも生きづらさはとめどなく湧いてくるのだから、結局生き物は生きづらさから逃げ続けて駆け巡る命題から逃れられないのかもしれないね。上等だよな。


 まぁとにかく、そんな風に達観したようにも、どこか他人事のようにも考えられるあたいはきっとお気楽だったのだ。人の趣味にまつわるあれこれの葛藤を聞き齧って、それを「みんな大変なのねぇ」と思うだけで、どこか左団扇に近かったかもしれない。趣味なき自分にすら悩みの無いあたいには、パタパタとどこ吹く風だった。

 あたいは自分自身に趣味が無くても、人付き合いや人のいる空間さえあれば生きていられる人間で、孤独とは人と会うまでの休憩に過ぎず、一人で何かを楽しむ喜びをあまり知らなかったようだった。単独行動ができないわけではない。でもあたいにとって趣味とは暇に苦しむことが無ければ必要のないものでしかなかった。

 今までの半生、手持ち無沙汰になれば耽ってきた読書や散歩も、趣味というよりその場その場の暇を潰すために自分に合った手軽なことをしているだけで、きっと代替の利くことだと軽視していた。べつにそれでなくてもいいと思っていた。だからことさらそれらを趣味だとは言ってこなかった。

 でも最近、ようやく趣味と言える趣味が見つかった。単純なことに、走ることだった。ランニングを日課として始めてもう10ヶ月になる。装備や書籍も買い揃え、知り合いや仲間から話を聞き、時に一人で、時に誰かと共に走り、街や川べりに沿った並木道をゆき、土や芝生やアスファルトを踏み締め、とうとうマラソン大会にもエントリーする始末でどっぷりハマってしまった。

 当初は健康のためだったけれど、今じゃ走りたいから走ってる。そこに山があるから登る登山家の言葉を理解不能なものだと思えなくなった。わかるよ。あたいもGoogleマップで目的地が5km先だったりしたら「20分走れば着くし走るか」ってなるもん。具合のいい坂道を見れば唐突にダッシュしたくなる。

 これは完全に趣味だと言っていいものになった。けれど、その趣味があたいを懊悩させるものにもなった。ここでようやくあたいは今まで聞いてきた他人の趣味に対する苦悩が実感を持って理解できるようになった。そしてお節介にも心の中に浮かんできた「辛いならやめればいいのに」「不満があるならしなくてもいいのに」という単純なアドバイスがなんの意味も重みもない言葉であって、今までそれを他の人へとぶつけずに既の所で飲み込んできて良かったと思うようになった。

 ここから、なぜ趣味で苦しみたり得るのかを、10ヶ月のランニング生活とともにあたいが自身の体験で得てきた知見と偏見で書いていこうと思う。趣味で沈痛してきた人の生傷をえぐらないように、朝方のジョギングくらいの易しいエッセイで書き残したい。で、書き切ったら寝る前にちょっと走りたい。

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