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いじめの被害者よりも、《いじめられっ子予備軍》の方が性格は歪む



 まず、お話の大前提ですわ。

 あたいは、いじめやハラスメントは許されないことだと考えてるし、被害者に対しての二次被害も看過できないことだと思ってる。

 二次被害とは被害者の抗議を封殺することや、無責任な誹謗などだ。

 たとえば、

「確かにいじめは悪いことだけど、される奴にも悪いところがあったんじゃないの
「いじめられるヤツには原因があるって言うし」
「ハラスメントなんて我慢して受け流せばいいだけ」
「社会人ならそんなの自分の力で切り抜けるべき
「ハラスメントなんて常識。それが社会、それが大人の世界


 みたいなことを被害者にぶつけることが二次被害の最たる例だ。

 こういうことを直接被害者に言っちゃう奴に、あたいは「やめな‼️」と叱責しながら頬をはたく。暴力は許されないことだから、それを擁護する声は殴ってでもやめさせて諌めるよ。



 だけど、“原因を考える“ことは間違ってないとも思う。
 人は考えちゃう生き物だから、「それってなぜだろう」「どういうことなのだろう」と思うこと、疑問が思いつくことは、まぁ仕方がない。


 もしもそういう問題を考えるのなら、できる限り俯瞰的に見て、「加害者がどういう経緯でその加害に至ったのか?」「被害者はなぜ選ばれたのか?」「なぜそれが発生したのか?」ーーそういう風に考えるのは今後の対策にも繋がるので意義があると思う。



 ただそれは、きちんと経緯を調べ、できれば物事を関係者から聞き取った上で「原因の一つはここにある」と詳らかにしてようやく意味があることになるんだろう。調べる方法は取材済みの書籍や新聞記事でもいい。類似する事案や、複数の専門家の知見でもいい。そうやって理解するには熟考が、時には時間が必要とされる。


 それとは逆に、傍目から見て「なんかよく分からんけど、おそらくこういう理由があるはずだ」と単純視して即座に断定するだけでは、ただ本人の中にある偏見を強化しただけだったり、ただの全豹一斑(一部だけ見て全部わかった気になること)の思い込みだったりするだけで、なんの意味もないのだと思う。


 よくワイドショーなどでも「加害者はゲームやアニメが好きだった」だとか流したりもするけど、それは原因の断定ではなく、ただの偏見の強化だろう。意味がない。むしろ害だけはある。



 つまり、聞き齧っただけで結論を出すのは、ゴシップ好きの野次馬根性に過ぎない。ただの楽で無責任な安直思考ですわ。

 そして「社会とはこういうもの(だから諦めろ)」と言ってしまうのは思考停止。社会は変わるものだ。これは本人に変わる意思がない、現状追認の表明でもある。

 ましてや、そんな個人的な感想を、傷ついてる最中の被害者に言うことはまったく意味が無い。絶対に違うと思う。

 そんなことしたくなるのは、言い返してこないから自論を気持ちよく言えるだけの“言いたがりさん“なんだと思う。こういう言いたがりな状態に、あたいもならないように気をつけてる。人は愚かだし、あたいも愚かなので、邪な考えに至ることもあるけれど、それでもまず「思いついても言わない」ってことを大事にしたい。




 ここまで、いじめやハラスメントを許さず、被害者への二次被害も許さない姿勢を取ってきたあたいだけど、一つだけ、被害者をさらに追い詰めてしまうような可能性もある留意の必要な考えを言っておきたい。


 それはいじめは絶対に不必要だってこと。仕方ないものだとか、そういうのがある方が競争を生むとか、経験した方が強くなるとか、ちょっとわかんない。あたいは賛同しないや。

 あたいは基本的に、たとえば毒親育ちであることや、いじめやハラスメントの被害を被ること、何かしらの犯罪被害や、病気や事故に遭うことを《そのおかげで成長できるもの》というようなイベントとして捉えていない。


 もちろん本人にとっては、「それがあったからこそ今の自分がある」と考えられる人生経験の一つに含まれていたり、その人間性や考え方を構築するのに不可欠な出来事であったかもしれない。被害者や当事者自身がそう考えることには意義があると思う。

 
 でも他人が「そう思うべきだ」と促すのは間違っていると思うし、あたい自身は基本的にそれらの経験を《成長に必要なこと》だなんて思わない


 要らない苦しみは間違いなく存在する。被害に遭えば傷を負うし、どんな人だって歪むものは歪む。それも間違いないし、間違ってない。

いじめられた人間は人の痛みを考えることができる」
「傷ついた分だけ他人に優しくなれる

 とかなんとかみんな言うけれど、んなわけがないのだ。

 人は、傷ついた分だけ臆病になっていいし、被害に遭わなかった他人を羨んでいい。現実を憎んでいいし、加害者を恨んでいい。

 「傷ついた分だけ優しくなれる」云々は、被害者が自分を鼓舞するために吐いた言葉だったのかもしれない。けれど、一人歩きした結果、現状被害に苦しむ人間を追い詰めるものになったし、加害者が復讐されたくないがために利用する二次的加害の抑圧的な言葉になっちゃったな、とあたいは思う。


 とにかく、基本的にいじめやハラスメント現場において、歪んでいない人間はいないのだ。



 まず加害者もそう。「加害者は根っからの悪人なのだ」という思考放棄する意味じゃなく、加害者も加害に至るまでの背景や変遷があり、そこで歪みを身につけているとあたいは思う。

 たとえば、人格形成の最中に他人に加害することを武器として学習してしまっていたり、ストレスや防衛本能として人に攻撃をする人もいる。加害することで利益を得られる回路を身につけていて、利益を得られる環境や立場にいるのが加害者の歪みだ。

 そういう面にも目を当ててみると、ただ贖罪させるだけじゃなく、同時に再犯防止のケアやカウンセリング的な矯正が必須なのは頷ける。


 そして被害に遭うことでも、人は歪んでしまう。卑屈になったり、攻撃的になったり、遠征的になったり、むしろ他の場所で自ら積極的に加害者になることもある。

 たとえば被害者が、助けてくれた人や支援者にさえつらく当たったりすることはままある。他人の施しを受けて自分を惨めに感じたり、人の善意を信じられないようになっているほど、追い詰められている人の歪んだ防御反応だ。

 なのであたいはこの記事のタイトルにもあるように、「いじめの被害者より、〜の方が歪む」と、比較ではあるものの被害者だって歪んでしまうことも書いた。「被害者は歪まない。それを糧にして成長する」というアホらしい幻想を取っ払って、歪まされてしまう現実を忘れないようにするために。


 
 そして、この歪みの現場に関わるものは、他にも存在する。


 それは傍観者の中でも、とりわけ「興味がない」「どうでもいい」という“無視する傍観者“ではなく、積極的に被害者を責め立てる傍観者ーー

 
 それをあたいは《いじめられっ子予備軍》と呼んでいる。冒頭にあったようにわざわざ被害者に正論ぶった個人的感想や、思いやりのない疑問を後から投げかける人も含まれる。

 あまり戦争関連の言葉を軽率に比喩に使うのも良くはないことだと理解しているけれど、それでもこれは彼らにとって《生き抜くための抗争》だと思うので、予備軍という言葉で言い表して説明したい。

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ここはあなたの宿であり、別荘であり、療養地。 あたいが毎月4本以上の文章を温泉のようにドバドバと湧かせて、かけながす。 内容はさまざまな思…

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