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【小説】ゲイ、異世界転生してゲイバーを開く(1/3)

【あらすじ】

お酒を飲み過ぎて亡くなってしまったゲイが一人。
ーー
死ぬほどお酒を飲んだある日。
目が覚めると、まだ酔いが抜けぬ彼の目の前には見知らぬ世界があった。
おとぎ話のような豪華絢爛な建物、異国情緒あふれる通り、山と海の間にある自然に囲まれた石造りの街。
そこには、人間の代わりにさまざまな種族の生き物が住んでいた。

そして彼自身も、人間ではなくなっていた。
体はスライムのようにドロドロと溶けていて、うまく立つこともできない。

「やだこれって異世界転生?」
人間もいない。
「しかもゲイはアタシだけ?!」
ゲイもいない。
異性愛者しかいないその場所で、彼は決意した。

「どうせならアタシがこの場所で唯一のゲイバーやってやるわ。異世界だろうがなんだろうがかかってきなさい❗️」
そして彼は、異世界の夜の世界で戦うことになったのだ。



1話目
トンネルを抜けると異世界だった。




 最悪の気分で目が覚めた。
 ああ、またやってしまった。
 いつものアレーー死ぬほどの、深酒だ。

 押し寄せるような吐き気で眠りから覚める。気分は最悪だった。頭も胃袋もそのまま掴んでかき回されたような感じ。ありとあらゆる不調が体にあるみたい。


 少しでも気分が良くなるように寝返りを打とうとしたら、背中や腰、体の至る所から鈍痛と骨の鳴る音がした。思わず色気の無いうめき声が漏れる。酔っ払っている間にどこかでぶつけちゃったのかもしれない。

 その痛みのおかげで頭の中は少しづつ冴えてきたけれど、体はまだほとんど動かない。とにかくダルい。吐きそう。目の奥まで貫いてくる頭痛のせいで瞼を開くのも億劫だ。痙攣するような薄目で自分が横たわる床を見た。知らない固い床だった。

 思わず面を上げる。その拍子で脳みそが飛んでいきそうだった。ぼやけた視界の先は薄暗い暗闇だった。その中でチラチラと白い光が幾度も瞬き、高速で通り過ぎていく。

 なんだろうこれは。
 それを見ていると吐き気が増したので、すぐさま目を瞑って、頭蓋の中の鈍痛に耐えることに専念した。何も見たくない、何も考えたくない。ただただ気持ちが悪い。早くこの苦しみから解放されたいーー

 グェッ。

 ーー体勢を変えたおかげか、ゲップが出た。胃液の匂いがするゲップ。すると途端に少しだけ気分がマシになった。電池を入れ直したゲームボーイみたいに、ガス欠になったワゴンRを揺らした時みたいに、ほんの少しの最後っ屁分だけ補充されたようだった。

 幾ぶんか冴えた頭で考える。
 それにしても、ここは一体どこなのだろう。

 音がごうごうと響き、狭い空間で反響しているような感じがする。
 ここは自宅でも、アタシの働く店ーーゲイバーでも、ラブホや発展場でもなさそうだ。

 そしてここ最近は酔っ払ってもお持ち帰りされるようなことはめっきり無くなったアタシなので、誰か男の家でもないこともわかる。悲しいことに店で女装をするようになってから早一ヶ月、誰もアタシのことを色目で見なくなった。女装家の悲しいさだめ。決してアタシがブスだからってわけではない。

 とにかく、そういうわけだから誰かと一緒にホテルにいる、ってことはありえないだろう。

 でもそうすると、今いる場所に心当たりも無ければ、本当に見当も付かなかった。酔っ払って目が覚めた時、帰巣本能のようなものが必ず働くのか、自宅か新宿二丁目界隈であることが多いのに、ここはそのどちらでもないことだけは分かる。


 どうせまだ立ち上がれそうには無いので、体力が戻るまで記憶の整理だけでもしようと試みる。努めて冷静に。でもすぐに不可能だと悟った。何も思い出せないのだ。どうにも誰と何を何杯飲んだのか思い出せない。というか営業中に飲んだものどころか、ほとんど丸ごと1日分の記憶がすっぽり無い。

 ゲイバーで働いていると、お酒のせいで記憶が一部抜け落ちるなんてことは珍しくなく、むしろ日常茶飯事だけれど、今日のこれは甚だしかった。一切合切覚えていないのだ。まるでこの場所に急にワープして送られてきたような、そんな突拍子もない感覚に陥る。

 ごうんごうんと音が鳴り続け、その度に頭が揺れる。まだ動けないので、仕方なくあてもない記憶を掘り起こす作業を続ける。


 昨日は別にパーティーでもなんでもない普段通りの営業日だった。夜7時に店に到着して、テレビを見ながら開店作業をしていた。個包装のチャーム(お菓子)を詰め、テーブルを拭き、トイレ掃除をして、酒屋さんに発注をかけて、おしぼりをウォーマーに入れた。いつも通りの作業。そして夜8時にはオープンして、まだほとんど酔ってないお客様数名と一緒に、穏やかな時間を過ごしていたはずだった。

 ーーいや、穏やかというか、有り体に言うとむしろ暇だったはずだ。

 アタシの店は最近てんでダメだった。前任のママから店を受け継いで、もうひと月が経つけれど、以前ほどの盛況はずっと訪れていなかった。赤字にはならないけど店子たちの給料を支払ってトントン。そんな日々が続いていた。

 そうだ思い出した。昨晩も閑古鳥が鳴いていて、夜更けになっても静かな夜だったはず。来てくださっていたお客様が誰かなのかはまだ詳らかに思い出せないけれど、たしか常連さんばかりで、彼らから無理に飲まされた記憶も無い。

 なのにどうしてこうも酔い潰れてしまったのだろう。自分自身でお酒を煽って無理して飲んでしまったのだろうか。

 アタシは店が静かになると居た堪れなくなって、目が合った人間にテキーラで飲みゲームをついつい誘いかけてしまう。アルコールが入らないと上手く話せないのだ。だから半ば無理やり他人に強いお酒と飲みゲーをふっかけてしまう。そういう治安の悪い人間だから、昨日も例の如くその悪癖でやらかしてしまったのかもしれない。今や一国一城のママだというのに、その威厳も資格もない。


 とりあえず昨晩の営業中のことは出勤していた店子に聞くとして、それよりもまず自分が今どこにいるのかが喫緊の問題だと感じた。記憶がないことが今更ながらじわじわと不安になってきたのだ。

 アタシは再度、瞼を渋々上げた。まだ視界がかなりぼやけている。酔い過ぎた時に見えるあの特有の、振り子のように揺れる景色。おかげで吐き気が復活してきた。それに記憶だけじゃなくコンタクトレンズも落としてしまったようだ。何も見えない。ただただ薄暗い。目を擦るとマスカラが目に染みて、涙も滲む。

 ただ、一つだけわかったことがある。どうやらこの揺れるような景色はめまいのせいだけじゃないようだった。実際にこの場がかすかに揺れていて、しかも地面ごとどこかに引っ張られていくような感覚があった。


 相当酔っているからそんなふうに錯覚しているのかしら、とも思ったけれど、安静にしていることで目覚めてきた身体感覚がこの揺れを現実のものだと訴えかけている。ここは……電車? いや電車じゃない。だって周りには誰もいないし、ここには窓も椅子も無いから。アタシは自分が狭くて薄暗い隘路でうずくまっていることにようやく気がついた。



 5分か10分か、それ以上かは分からない。苦しさに眠ることもできずに目を瞑ってじっと吐き気に耐えていた。ふとした瞬間、その揺れが収まって、近くから光が差し込んできた。外だ。すぐそこに外がある。さっきまで薄暗かった先の方に自然な光が見える。よかった。外に出たい。アタシはなんとか立ち上がって、千鳥足のまま急いで狭い洞窟のような隘路を抜けた。


 光が降り注ぐ先。小さな洞穴のような出口から身を屈ませて抜けていくと、平らな地面に降り立った。その途端に寒気で身震いした。吹き込む風が冷たい。朝らしい冷えた青い空気。しんとしたあたりには山の斜面のような一面の緑が広がっていた。どれも裸眼ではモザイク画のような解像度だった。

 それでも光は目に染みる。朝日が山の先の遠くにある。アタシはそれ直接見ないようにして、ここがどこかを見回そうとした。すると急に立ち上がった反動だろうか、胃袋がグッと押し上がって、吐き気がもうすんでの所まで登ってきた。

 アタシは思わず身を屈め、反射的に吐く準備をしてしまった。だけど意地でも吐いてたまるかと思い、無理くり胃液を飲み込む。すると背中の方で地響きのような轟きが鳴り響き、突風がこちらに吹きつけてきたので前方に倒れ込みそうになった。それをアタシは立ち仕事で鍛えた両足で堪え、中腰で地面を見ながら踏ん張った。

 今ここで倒れてしまっても衝撃で吐くだろうし、上を向いてもきっと勢いで吐くだろうと確信している。めまいで視界が揺れて足を奪われそうになるので、コンクリの床の汚れの一点だけを必死に見つめた。永遠にも感じる時間の中、なんとか吐き気を耐え忍び続ける。がんばれアタシ。はたから見れば女装して四股を踏む不審者だけど気にせず自分を鼓舞した。


 1分ほどだろうけれど、そのままの滑稽な中腰の姿勢で吐き気と戦っていると、やや吐き気は下っていって落ち着いた。とんでもなく時間が長く感じた。冷たい風が頬をなぞる。いつの間にかあたりは静寂に包まれていた。アタシは長男だから耐えられたけど次男なら耐えられなかった。

 周囲の様子を上目で窺う。見える範囲に人影は無い。
 ーー今吐いても誰にも見られないだろう。

 だけれど節操もなくその場で吐くつもりはない。アタシはひとまずトイレを探すことにした。道端で日中堂々お粗相するのなんて懲り懲りだ。大体アタシももう若くない。水商売で店を構える人間が、威厳あるゲイバーのママが、そこらへんで吐いているのをお客様が見でもしたら、もう面目丸潰れだろう。

 とりあえずアタシはそこにあった階段をゆっくり降りた。履いていたヒールのせいでプルプルと全身が震えた。体勢を崩すその度に胃袋が悲鳴をあげて、アタシは「ウグゥ」と唸る。この姿にまともな面目があるかも不安になってきた。


 


 階段の先のすぐそばにトイレがあったので、一目散に個室に入って、便器に顔を突っ込む勢いで吐き戻した。透明の水分だけが水面に落ちていく。

 そういえば昨日から、お酒以外に持病の薬しか胃に入れていなかった。そのせいで液体しか出てこない。空きっ腹に詰め込んだアルコールのおかげで鳩尾から胃袋が痙攣する。苦しくて死ぬかと思った。でも何も出なくなるほど吐いてしまうと、幾分か体調が回復した気がする。


 ああ、ゲロを吐いたから歯がざらつき、喉が焼けている。脱水症状もひどかったので、手洗い場で水を口に含み、何度かゆすいだ後、思わず流水をガブガブと飲んだ。ぬるいので美味しくはない。空っぽの胃袋を刺激したのか、もう一度吐けそうだったので、再度個室でスッキリしてやった。もうね、何年も飲み屋で働いていればセルフ胃洗浄もお手のものよ。アタシは自嘲気味に緩む口元を、袖でそっと拭った。


 それから、自分ではまっすぐ歩いているつもりの千鳥足で一歩一歩踏みしめてトイレから出ていく。こんな姿を誰か知り合いに見られたら、いや、そもそも知らない人だろうが他人にこんな酩酊に近い自分のやさぐれた姿を見せるのは恥ずかしいけれど、アルコールのせいだけじゃなく、今は裸眼でよく見えないから仕方がないのだと誰に言い訳するでもなく自分に言い聞かせてとにかく足を進める。まぁ周りからすればアタシが裸眼だとか知ったこっちゃ無いんだけどさ。


 にしても、いまだにここがどこなのか分かりそうにない。建物の中には白い看板や明かりがたくさんぶら下がっている。それがどうにも目に染みてしまうのでアタシは伏し目がちに歩いた。ここはアタシが働く店が入るテナントビルでも、繁華街の建物でもない。アタシの家の最寄駅でも無いようだし、なんだか不思議な違和感もある。いくらぼやけた視界だろうとまったくもってピンとこない場所なのでますます不安になってきた。


 すると、ずしんとした頭の重さのせいで思わずよろけてしまい、アタシはそこにあったガラスの壁に寄りかかってしまった。わりと大きな音が響き、頭痛が共鳴する。反射的に伸びた手はガラスにびたんと粘度を持って張り付いていた。足が鉛のように重たい。泥沼にハマったような気だるさが取れない。脂汗が滲んでくる額をもう片方の手で拭いた。

 ああ、このまま横になってしまいたい。吐いたのにそれでもまだ夥しいほどのアルコールが血中から体内の隅々を駆け巡っているようで、まるで自分の体が自分のものじゃないみたいな感覚が襲う。これはまずい。急性アルコール中毒がアタシの脳裏に過ぎる。酩酊を超えた泥酔をさらに超えた、麻痺中毒ーー。

 意識のあるうちに自分で救急車を呼ぼうかと逡巡した。

 ふと視線を上げると、ちょうど寄りかかるガラスに目があったので目を凝らした。アタシは今どんな酷い顔をしているだろう。反射するものを見れば自分の顔を確認してしまうのが美意識高めのアタシの悪いところーー、



「え……なによこれ……?」

 
 すると思わず、声が出た。


 たしかに、いやたしかにアタシももうアラサーのおっさんだから、朝になるとポツポツと髭が青くなるし、酔いで顔が青ざめていることもあるけれど。

 ーーでも、そういうレベルじゃない青白い物体が、鏡の先の自分が映るはずの場所に立っていた。まるでそういった化け物やモンスターのコスプレをしているかのような、現実的でない色合いーー。

 こんな姿で出歩いていたの? と途端に顔が熱くなった。記憶が無いけれど、昨晩の営業中にお客様や店子の誰かから仮装用のメイクでも塗られたのかしらと思って、そっとそこに反射している自分に近づく。

 そこでまた、アタシの心臓は跳ね上がった。

 
 ーーそこに写っていたのは、青白いのドロドロの体から、目と手だけが触手のように伸びているアタシの体だった。

「えぇ!?」

 声にもならない声で身を仰け反らし、急いでガラスから離れる。

「なん、なによコレェ!?」


 人目も憚らず、素っ頓狂な声を上げながら、壊れ物を抱えるみたいに自分の体に触れる、冷たい。死体のように冷たい。どこを触ってもグジュグジュした感触がある。


 ヤダ、どうしよう、気が動転しそう。幻覚が見えている? お酒の酔いが残って夢でも見ている? いや、もしかすると ドッキリかなにかで鏡と思ったモニターから映像を見せられているとか? ーーいいやこれは違う。全身から頭に伝わってくるリアルな感覚が、これが現実だと訴えかけてくる。アタシは今、この化け物の体を操作しているのはアタシなんだとひしひし実感している。

 アタシは化け物になったんだ。


 血の気が引いて倒れそうになる。

 美人ではないかもだけれど、そこそこ気に入ってたアタシの顔。三十路に近づくにつれて丸くなってきた体。母親譲りの色黒の肌。お風呂上がりはいつもクリームを塗って大事にしてきた。生まれてからずっと見続けて愛着の湧いた自分自身の全身。それを失うと、ショックで視界が回るようだった。この悍ましさに大声を上げてしまいたかった。

 一体アタシはどうなってしまったの。
 ねぇ、助けて、ママ。


 だけど、だけどアタシは踏ん張る。
 一呼吸しながら、アタシはグッと唾を飲み込む。
 声に出して息を吐く。


 そうだ、ダメよ、しゃんとして。弱音を吐いてもどうしようもない。

 ーー「弱音は吐いちゃダメ、吐くのはゲロだけにしなさい」と、ずっと前にママが金言をくれたじゃないか。それを思い出せ。

 本当はその場に座り込みたかったけれど、アタシは両足できちんと地に足つけてまっすぐ立った。しっかりしなきゃという気骨だけで背筋を伸ばす。


 大人なんだから、現実に即した冷静な考えを述べよう。

 これは多分、お酒の飲み過ぎで幻視と幻覚の両方が出ているのだ。こんなのはじめてだ。考えたくないけど、ここまでリアルに幻覚が見えるのなら入院が必要な状態かもしれない。入院。お店が閑古鳥な状態なのに、ママが入院。そうすれば店も完全に休業することになるだろう。

 そんなのいやだ。もう終わりだ。お客様が戻ってこなくなっちゃう。


 でも、仕方がないよね。健康にーー命に背に腹は変えられないから。

 アタシは正直いまは自暴自棄にも近い。ショックのあまり絶望の底にいる。店か自分を選ばないとならないーー本当なら二つ返事で店の存続を選ぶ。でも今アタシが「店が閉まってしまってもいい」と考えるのは、自分の身のためなんかじゃなく、こんな状態のアタシなんかが店に立ってもどうせ意味が無いのだからという自己嫌悪が発想の源泉になっている。それを自覚しているからこそ、アタシはもう終わったのだと思ったのだ。自分も、店も。


 でもここで怨嗟を吐き散らしても、意味がないよね。
 とにかく喉がまだまだ渇くや。

 こういう時は、そうだ、とにかく誰かに連絡して助けを求めなきゃ。万全ではないけれどまだ自分の足で動ける。病院に自力で行ける。だから救急車ではなく知り合いに連絡しよう。他店ゲイバーのママ仲間か、信頼できるお客様に付き添いをお願いして病院に向かえばいい。点滴を打とう、病院のベッドで寝よう。それならまだ店を休んでも許される大義名分が立つ。

 アタシはスマホを取り出そうとした。けれどそこでようやく気づいた。いつも営業中に首から下げているスマホも、出勤用のカバンも手元に無かったのだ。しまった。アタシは酔ったら物をどこかに置いてくるきらいがある。自店にあればいいけれど、2丁目のどこかに置いてきたかもしれない。どうしよう。連絡もできない、お金もない。

 ただ、よく探すと名刺サイズの真っ黒な紙が一枚だけが手元にあった。くしゃくしゃに折れ曲がっている。名刺ではない。これが何かもわからない。記憶がない時は本当に何もかもがわかんなくなっちゃうのだ。自分に腹が立って、情けなくて、泣いちゃいそうだ。

 こういう時はどうすればいいのだろう。頭を抱えるとそこもベタベタした。そうだ。とにかく家に帰って、それから家のiPadからSNSにログインして、友達にメッセージを送ろう。それなら連絡ができる。

 だからまずは外に出て、ここが歩いて家に帰られる距離の場所なのかどうかを確認しなければ。

 アタシは周りをキョロキョロと見回した。近視な上に、酔いのせいでとことんぼやけているけれど、先の方に外に出る扉やホールのようなものがあるように伺えたので、よたよたと歩きながら、そちらに向かった。すると目の前の小さな門のそばに黒い人影が見えたので、アタシはその人にここがどこなのか聞くことした。



「あの……ちょっといい?」

 と、そのぼやけた人影に声をかけようとした瞬間。

 衝撃で、アタシの足も声も、そして時も心臓もーーと思うくらい何もかも止まってしまった。

 そう、どう考えてもそれは、人のシルエットじゃなかった。

 例えるなら闘牛のような、毛むくじゃらの獣の頭を持ったガチムチ大男。

 それがその門の横に立っていた。


 頭の中で危険信号が灯(ペカ)った。強い動悸が身体中に響く。怖い。途端にどくどくと熱い冷や汗が出てくる。RPGゲームのモンスターのような存在がそこにいる。いたのだ。現実に、そしてそこに。

 言葉は通じるだろうか、意思疎通できるだろうかーーなによりこいつは“人間に襲いかかってくる生き物“だろうか。一瞬でそういう恐ろしい考えが頭を巡る。

 後退りしそうになったアタシを見て、その表情の読めない牛頭はこちらに手を伸ばしてきた。胸ぐらを掴まれるのかと思い、心臓が跳ね上がったけれど、思いの外ゆっくりと伸びてきたその手は、アタシの唯一の所持品である折れた黒い紙を奪い取って、

「どうぞ」

 とだけ小さく言い放ったのであった。

 アタシは「あら……どうも」とそさくさと小さなゲートを抜けた。
 早足で逃げるようにそさくさと行きながら、ふと振り返ると牛頭の化け物は直立不動でこちらをじっと見ていたような気もするけれど、ほとんどなにも見えないアタシにはその表情は窺えなかった。





 ああ怖かった、寿命がすり減ったような思いがする。

 普段はアタシもゲイバーなどで「若くて綺麗なうちに死んでしまいた〜い」だとか冗談混じりに言うけれど、いざあんな風に恐ろしい生き物を見ると決意虚しく震え上がってしまう。ちょっとおしっこも漏らしたかもしれない。

 動物園で檻越しに見ても怖くない生き物が、真横にいたら怖いのと同じ。牛も虎もライオンも側から見りゃ可愛いけれど、よく考えれば人の命を簡単に奪える存在だから、改めて考えるとその存在はひどく恐ろしい。


 さて、呼吸を整える。動悸と汗でますます脳がキリキリと痛んだ。
 建物を出た先は、山道のようなところだった。
 心当たりも見覚えもない、未知の場所だった。


 アタシはその道を少し登りつつ、誰か人と出会さないか期待した。その間、土を踏む自分の足音、木々の揺れる音だけが響く。一面の緑。人は誰もいない。アタシは体に鞭を打って坂道を登った。

 少しすると滝があった。小さな滝と沢だった。さっきよりも肌寒く感じる山の中。その冷たさがより一層その水を清潔で爽やかなものに見せた。普段はミネラルウォーターしか飲まないようにしているアタシだけど、この時ばかりは気がついたら沢に手が伸びていた。指先が痛くなるほど冷たい。浅い底には石や岩が見える。透き通るほどの清流である渓流なようだ。

 アタシは一口含んで口を濯いで、砂利の上にそのまま水を吐き出した。なんの臭みもない。飲めそうだった。そう判断すると、アタシはたまらず一気に胃袋に押し込むように飲んだ。

 ああ、内臓にまで冷たさが染み渡る。こんな野山にある水を、汚れだとか菌だとか気にせずに飲んだのは子どもの時以来だった。美味しい。まるでミネラルウォーターのような川の水だった。いつも飲む軟水と口当たりも遜色ないので、これが瓶詰めされていてもきっと気づかないだろうなと思った。アタシの店でどうしようもない酔っ払いどもに飲ませても、きっと気がつかないだろう。



 たらふく水を飲み、少し気分が回復傾向にあると、アタシはさっき通った道とは別の方から山を下ることにした。山の先に登るほどの体力も無いし、山だってさっきみたいな化け物がいるかもしれない。それに冷静に考えると、ここで人を探すのは悪手かもしれない。

 だって、こんな自然の中でアタシのような化け物に遭っても、怖がらせるだけだろう。牛のような化け物の存在で震え上がったアタシだけで、よくよく考えるとアタシの体も今はモンスターみたいになっちゃってるんだから。


 さっき登った緩やかな道とは打って変わって、急な坂道を少しづつ下り、途中で休憩を挟みながら体の中の水を吐かないように胸を抑える。腕で、いやその職種で撫で下ろす。

 息が整ってくると、ふと頬に風が触ったことに気づく。
 それが吹いてくる方に視線を向ける。


 ーー街だ。
 よくは見えないけれど街があって、そのすぐ先に海がある。

 初めに降り立った場所が山間にあったから、ここは深い深い山の中かと思っていたけれど、すぐそこに街があるようで助かった。街の地形的に湘南や江ノ島あたりかと思ったけれど、どうも様子が違う。あまりに山と海と街が近い。アタシの知らない土地のようだ。

 アタシはとりあえず人のいそうな街の方に向かって進んでいくことにした。ここじゃ人っ子一人もいないから助けも求められない。


 とにかく歩こう。砂利にヒール持っていかれそうになっても歩みを止めなかった。足取りは軽やか、でも本当は不安で心が重苦しかった。

 今のアタシには何もない。手ぶらであること、状況がわからないこと。何もかも宙ぶらりんで怖い。スマホが無ければ助けを求めることも、ましてや状況を確認することもできない。ここがどこなのかも、そしてなんであんな化け物がいたのかも。なんでアタシの体がこんなになっちゃってるのかも。

 さらに考えないようにしていたけれど、最悪のパターンーーもしかすると街にもあんな化け物がいるかもしれないってことが脳裏にチラチラとよぎっている。もしも化け物が魑魅魍魎騒ぎで跋扈していたら日本中が大騒ぎだろう。まずSNSで拡散されるに違いない。それでもそんなニュースがあっても今のアタシにはわからない。スマホが無いから。歩いて自分の目で確かめるしかない。


 胸中いっぱいに不安を押し込めたまま、もしもの時があった場合に備えて体力を回復させつつ歩く。木々の先にもう建物が見えてきた。古い一軒家だろうか。木々に沿って立て並ぶ。けれど人影もコンビニもない。不思議だ。建物があるのにここら辺は誰も歩いていないのだ。なので川に沿ってまだまだ歩みを止めずに街の方へと向かう。さっきまで雲に隠れていた陽が、空の合間を抜けて街を照らし始めた。ようやく街の辺りに到着した。アタシはまた驚愕した。

 

 ーー街には、人間は一人もおらず、化け物ばかりがいた。


 初めは自分の視力のせいだと思い、その歪なシルエットが人のもの、あるいは街で仮装か何かをする祭りがあったのだと苦しい考えを頼りにして、勇気を出して人の集まる歩道に近づいたけれど、どうにもそれは見間違えでもなんでもなく、本当に、本当にそれぞれ多種多様な化け物だった。それが生息している街だったのだ。


 頭から色とりどりの羽毛が生えている奴。全身が真っ白な妖精みたいなの。何を言っているのか一つも分からない言葉で話すエルフの集団。筋骨隆々とした二足歩行の豚。よろよろと歩く骸骨。鬼のような赤い大男。小さな精霊のようなものを肩に乗せた巨人。毛むくじゃらの化け物に、ツルツルの化け物もいる。多様性もびっくりの多種多様。

 人間が一人もいない。
 どこにもいない。

 アタシは誰にも声をかけることができずに呆然とした。ただ、こんなヘンテコな生き物ばかりのおかげで、アタシがそこを歩いても誰もが素知らぬ顔で通り過ぎて行った。目を合わせることも話しかけられることもなかった。それだけが救いだった。体がグチュグチュと蠢く、スライム状のアタシを見て怪訝な顔をする者はいない。アタシも化け物で、他の生き物もみんな化け物だったから。

 街はやはり見たことのない街で、大通りにはたくさんの化け物に溢れていた。最初はその化け物たちばかりに目が行っていたけれど、道を抜けて歩くうちに、堅牢な石積みの建物が並ぶようになった。中世のお城のような造りの建物もあれば、レンガ作りの建造物に、大正モダンを感じる近代ビルディングのようなものも並んでいる。まるでファンタジーの城下町のようだ。

 少し歩いて建物の合間を抜けると、次はまるでイメージだけで作られた“いにしえの中国“のようなところにも出た。横浜の中華街のようだけどこじんまりとしていて、まるでハリボテのテーマパークにも思える。相変わらずいろんな姿形の化け物と、嗅いだことのない食べ物の匂いが蔓延している。

 歩いても歩いても現況は改善しない。ますます深みに増していくようだった。それでもアタシは歩みを止められなかった。立ち止まってしまうと二度と立ち上がれないような気だるさと二日酔いが全身を縦横無尽に巡っていたからだ。

 アタシは、そんな自分の今置かれている状況に、まるでジブリ映画の異世界に入り込んでしまった神隠しの少女を想起した。よく考えるとこの街はそれに近い。こじんまりとした区画に、毒々しいほどの赤いアーチや石像のような門、古そうな緑釉瓦の屋根が所狭しと立ち並ぶ。胸焼けしそうな匂いの肉の塊や、得体の知れないものを食べ歩きしながら楽しむ化け物たち。アタシの胃は空っぽのはずなのにお腹は空かなかった。


 そしてその区間を過ぎ去り、坂道を少し登った。まだアタシは歩めた。勾配のひどい坂道であろうと、ただひたすら無心に足を機械的に動かしている間はm何も考えずに済んだからだった。

 おとぎ話に出てくるような赤いレンガ作りの建物や、真っ白に塗られた木材の洋風建築、小さな古城のようなものが立ち並ぶヨーロッパみたいな場所にたどり着いた。海に近い街を見下ろすここの建物の屋根には風見鶏。その下で年老いたゴブリンがこの風景をスケッチをしている。アタシがキャンバスを覗き込むと、ゴブリンは照れくさそうにしわくちゃの頬をかいた。少し愛しいと思ったわ。

 とにかく生き物以外は、辺り一面、まるで映画のセットで建てられた建築のよう。鮮やかな花の植栽が並んでいて印象派の西洋絵画の世界に迷い込んだみたいだった。足が限界に近かったので、そこの広場で腰を下ろす。どこからか音楽隊の陽気な音色も聞こえてきた。

 依然、人間の姿は見えない。化け物しかいない。だけどもういちいち驚くのにも飽きた。アタシは色々と限界だった。二日酔いの体に鞭を打って歩き回って分かったことは、ここはアタシが来たことのない場所だということだけだった。

 つまり、ここからじゃアタシの家には簡単に帰れそうにないってこと。
 お金も無いし、歩いて帰れそうにもないし、連絡手段もないのだから。

 いいや、そもそも大前提としてここはーー馬鹿げたことを言っているかもしれないけれど、アタシの知る世界じゃないかもしれないのだ。



 ここら一帯、わけのわからない建物ばかり広がっていた。山に、海に、西洋造りの建造物に、中華風の区画に、ヨーロッパのような街並み。まるでテーマパークに放り出されたみたいだ。

 何より、一番恐ろしいその現状は、アタシの体がスライムのような青白いドロドロした化け物と化しているのに、それがおそらく違和感なく自然に受け入れられていること。幸か不幸か、この世界においてアタシのこの姿もスタンダードだったことだ。みんながモンスター然とした姿形をしているのだから、アタシだけが畏怖の対象になることはなかった。アタシは女装の上に羽織っていたロングパーカーを抱きしめるように引き寄せてうずくまり続けた。それは安堵ではなく、シンプルに痒かったから、安物の女服は毛羽立っていて、昨日剃るのを忘れた体毛に絡んで痒かったからだ。

 そしてこの奇妙な体の感覚は、太陽に当たろうが、歩こうが激しさを増すばかりだった。とにかくつらい。何がつらいのかも的確にはわからないけれど、すぐさま横になりたいほどただつらい。

 どれだけ時間が経っても一向に人間の体に戻る兆しがなく、流動体のぐちゃぐちゃした体内でも、肩だけはとんでもなく凝り固まって、首に至っては締められたように詰まる感じが続いた。まるでそう、首に縄をかけているかのようなーー。

 大体、夢ならもう醒めているはず。
 ゲロを吐きそうになって、それでもずっとひたすら歩いて、酒臭い呼吸でどろっとした汗をかいて、嗚咽を漏らしながら息を吸う。街はおしゃれなのに自分から漂う全て何もかもが臭い。その度にアタシは全身で生きていることを実感する。くさいって生きてるってことなんだ。


 だから夢じゃないんだ。

 だったらもう、アタシは一生このままなのかしら。

 チラリと、街灯からぶら下がった時計を見る。もう午前十時だった。本来だったら営業が終わってすでに家で眠っているはずの時間だった。

 なんでこんなことになってしまったんだろう。

 次はむやみやたらに悲しい気持ちが襲ってきた。どうしたアタシの情緒。自分でも冷静な自分と、不安でいっぱいの自分で乖離していていっぱいいっぱいだ。

 でも二日酔いと嘔吐と歩きすぎで脱水症状気味なのか、それとも化け物の体になってしまったからか、涙も出ないや。



 ーーそれから、五分、十分ほど経ったのだろうか。

 ふと、アタシは頭を上げた。視界の先の方でまだ続いているゴブリンのスケッチについ目を見やってしまうが、依然進行していないようだった。ニコニコとしていてやっぱり愛おしいゴブリンだった。

 アタシは、化け物の雑踏から離れてぽつねんとしていると、この理不尽な現状で、ある一つの可能性に思い及んだのだった。


 
 つまりこれは、そう、異世界転生じゃないのだろうか、ってことに。

 突拍子もない考えなのは自覚している。けれど、これしか思いつかない。
 この状況が悪夢や幻覚でも、ドッキリでも夢の中でもないのなら、これはもう、そうとしか考えられない。

 もちろん、普段ならそんな可能性は一蹴する。「アニメの見過ぎよ」「そんなの馬鹿げているわ」と鼻で笑う。どう擁護しようともお花畑でファンタジーな妄想だと思う。でもそんな問いを投げかけるアタシの目の前を、いまだにいろんな化け物がスイスイと横切るので、ますますその考えを固めるばかりだった。
 
 この状況、この世界こそまさに、異世界転生のそれだ。



 ーー異世界“転生“。


 それは現実世界で死んだ人間が、別人のような容姿であったり、性別や種族がまるっきり変わっていたり、生前に無かった能力で、まったく別の世界を生きる物語。つまり第二の人生の謳歌を主軸とした、そういう設定のフィクション。そう、ただの作り話。

 だけどどうよ。今のアタシの置かれた状況はどう考えてもそれに近かった。ファンタジー作品のような華々しさは無いし、今のところ化け物が空を飛んだり火を吹いたりしているわけでもなく、魔法もなく車も走っていてアタシはひたすら」歩いてばかりだけれど、それに異世界と言うわりにはその世界観は異国情緒の範疇かもしれないけれど。でも急にこの世界にほっぽり出されたアタシのこの体の変化を見れば、そういう設定が存在したと認めざるを得ないじゃない。だってスライムよ、スライム。ああもう吹っ切れてきたわ。アタシはスライム。これでローションいらずでセックスできるわ。ガハハ。


 そもそも流行りのフィクションにも着想となった元があるのかもしれない。考えてみると、昔から言われてきた神隠しの伝承や、輪廻転生といった宗教の教え、浦島太郎のようなタイムリープの昔話も、何か通底するものがある。きっとそこには実際に存在した現象がベースとなっていて、フィクションの皮を被った伝記だったんだとしたら? それなら合点がいく。
 
 アタシの現状にも当てはめてみよう。

 モンスターだらけで人間がいないのも得心がいく。
 →ここは異種族の世界。

 時代も国も違う建物が入り乱れているのも理解できる。
 →異世界だから。アタシがいた世界とは違う歴史を辿ってきたから。

 またこういう話は一昔前だとパラレルワールドだとも言われていた。自分がいた世界と違う歴史や存在が認められる世界。そしてそこに迷い込んでしまうこと。そんな物語はずっと前からありふれていた。

 つまり“異世界転生“は、パラレルワールドや輪廻転生、神隠しーーそれらの組み合わせによって起きた、事実を元にした現代風の伝記や寓話だったってこと?


 アタシはこの考えに至った時、すっきりしたような納得感と同時に、漠然とした喪失感がじわじわと胸に込み上がってきた。


 だって、“もう無い“から。
 ここが異世界ならば、アタシはもう元いた世界には帰れないのだろう。

 ーー前の世界の、前の体のアタシは死んでしまったのだろうから。

 アタシはこの世界で、この体で、これから生きていかねければならないのだ。



 アタシは頭をガシガシとかいた。シャワーを浴びたい。まだまだ頭はアルコールの影響で呆けている、でも目覚めた時よりかはだいぶマシだった。

 しかしそれでも昨晩のことをどれだけ振り返っても、“死んだ時の記憶“はなかった。そもそも死んでしまったという自覚もない。死んだ経験も無いから参照する感覚もないのだけれど、死んだ苦しみや痛みというのは案外ないものなのだろうか。アタシは安らかに死ねたのだろうか。

 ただ、唯一昨夜の記憶に確定事項があるとすれば、それは店の営業日だったってことだ。アタシは店に立っていた。それだけは間違いない。ならばアタシが死ぬとしたら、営業中に酔ってくたばったか、それかビルの非常階段や道路に飛び出て事故ったのか、泥酔してお酒のせいで寝たまま息を引き取ったかーーあるいは誰かに殺されたのか。

 もしもお酒のせいで息を引き取ったなら、馬鹿げているかもしれないけれど、アタシはそれでいいと思った。ゲイバーのママとして立派な最期だろう。


 アタシはずっと水商売一本で生きてきた。
 お酒で生かされ、お酒で死ぬ。本望だ。
 末期の水が安酒の焼酎なのは少し呆気ないけど、アタシの格を考えると妥当だろう。

 それにアタシは死んでしまったこと自体に後悔はない。だって前の世界のアタシはすでに死に体で、惰性で生きているようなものだったから。

 死ぬのが怖いし億劫だから死んでいなかっただけで、安楽死できるボタンが目の前にあればすぐに押していたと思う。積極的に生き続けるための動機や理由はすでに無かった。生きているから生きている。それだけの人生だった。


 店の営業中は、もちろん客前なので、虚栄と虚勢の空元気で明るいママを演出していたけれど、実のところ心も体もボロボロだった。そもそも年齢を考えた時に、水商売なんて辞めようと思っていた矢先に、先代ママからあれよこれよと唆され、雇われではあるものの店ママに就任してしまい、そのまま辞めることもできずにいた状態だったのだ。

 正直、いろんな責務や責任が背中に重くのしかかっていて、つらかった。


 だからアタシは死んでよかったのだ。

 ーーだいたい、前の世界では人様に死を願われ、恨まれていたから。



 だから、自覚もなく唐突で、半ば強制的な退場ではあるものの、前の世界から退けて良かったのかもしれない。今のアタシにはそう思える。さっきまでどうやって帰ろうかと右往左往していたけれど、打って変わって今はもう帰らなくていいと分かって安堵すらしている。

 もう与えられた世界は変わってしまったのだから、ここで生きるしかない。

 心機一転、一からのスタートだ。


 と、アタシは一念発起して頬を叩いたーーあ、いや頬は無かった。手にはベチャッとぷるんとした感触が伝わってきた。とにかくまだ空元気には間違いない。二日酔いでボロボロで、奮起するには足取りもおぼつかない。

 水が飲みたい。あとお腹に物を入れたい。この強烈な二日酔いの虚脱症症を抑えるには、結局食事しかないから、アタシは何かを食べたいと思った。安心するとお腹が減るとは言うけれど、アタシは初めてその意味を知ったかのようだった。途端に強烈な空腹が押し寄せた。こってりしたやつが食べたい。


 そんな時、一つ懸念が生じた。

 それh「以前の世界と同じように、この世界で暮らせるのか」ということだ。

 たとえば食べるものや、考え方、それこそそうよ! 言語だってそうじゃない。
 ここにいる化け物たちに、アタシの喋る言葉が通じるのだろうか。

 異世界もののお話ってそのあたりはどうなってるのかしら、と悠長に考える。なんかああいう物語ってそこらへんの説明はせずに流れと勢いで読めちゃうけど、ツッコミどころは満載なのよね。アタシなんてゲイ友と台湾やタイに行った時ですら言葉が通じなくて苦労したからね。おかげでイイ男も逃したわ。そういう経験があるからアタシは異国人のハードルをよく知っている。

 でもアタシには学がない。高校を中退してからずっとこの10年間水商売一本だった。英語も歴史もわからない。手元にお金も無いしスマホも無い。じゃあどうしよう。もしもここできちんと意思疎通して助けを得られなければ、このまま餓死しちゃうことだってあり得る。そもそもお金があったとして、それは日本と同じものなのかしら。この世界はいったい何が常識で、どうすれば生きられるの? ゲームの説明書のように目録があるわけじゃない。アタシは不安に陥った。

 とにかく誰かに声をかけてみなきゃわからないことだらけなのに、誰に対しても話しかけていいのかわからない。さっきから何度か目があっているゴブリンに話しかけてみようかしら。いやでもスケッチに夢中みたいだしね……あっ、キャンバスが彩り鮮やかになってるわ。海の前に赤い灯台が聳え立っている絵。上手じゃない。

 すると、ちょうどアタシの目の前に全身ピンク色の妖精が二匹通ったので、アタシは強面のモンスターよりも話しかけやすいかなと思って、意を決して話しかけた。

「あの、ちょっとごめんなさいね」

 アタシの上擦った声に対して、


「ーーはい?」

 と返事が返ってきた。

 ーーよかった、通じた!

 しかもアタシが知ってる言葉、日本語で返事が返ってきた。異世界転生も面倒なことは都合よく省略されて言語を取得するところから入るなんて作品無いものね。まぁ本当に都合よく解釈するのなら、自分のいた世界に近い並行世界に移送されたから言葉が通じたーーとかなんとでも言えるけど。

 とにかく僥倖。アタシは安堵して思わず押し黙ってしまい、言葉が詰まる。
 それを見て心配そうに妖精たちが、つぶらな黒目だけの両目でこちらを見つめてくる。

 いけないいけない。ちゃんと伝えなければ。


「あの、アタシ、日本から来たんだけど、その、喉が渇いてて……どこか水が飲める場所とか教えてもらってもいい?」

 すると妖精たちが顔を見合わせて。


「向こうに自販機あるけど……なんなん? お兄さん酔ってるん? 」


 と、普通に教えてくれた。

 しかも思いのほか関西弁だった。

 アタシは心の中で、静かに、エセ関西弁で「なんでやねん」と嘯いた。

 

 目を凝らして石造りの道を踏み外して転ばないように歩み、自動販売機を見つける。年々弱視が進行しているので、アタシは本当に不便だと思いながら機械の中に並んでいる商品に目を凝らす。

 金額が160円の緑のペットボトル(おそらくお茶)、120円の水らしき透明のものーーよかった円表記だ。異世界転生ものなら普通なんやかんやで特別な通貨設定が出るものだけれど、この世界は円だった。作り込みが甘いってネットで叩かれるわよ、とアタシは安心した余裕からか悪態づいて水のボタンを押す。

 出てこない。
 飲み物は買えなかった。

 そう、アタシはお金を持っていなかった。

 アタシのバカ、世界のバカ。どうしてこんな化け物だらけの世界でも資本主義なのよ。ふざけてんの。こっちは喉がカラカラなのよ。魔法でも超能力でもまじないでもなんでもいいから水の一つくらい湧きなさいよ!

 ーーと、叫んでやりたい。
 でも我慢した。力を振り絞って大きくため息をする。

 アタシは愕然とうなだれて、自動販売機の横のレンガの壁に背中を預ける。


 目下の問題は、お金だわ。

 お金がないとご飯も食べられない。
 宿にも泊まれない。


 お金を得るためには働くしかない。

「働くしか……ないのね」

 働くことが嫌なわけじゃない。働けるなら働きたい。この地でどんな仕事だってやってやる。

 でもアタシは、今までゲイバーでしか働いたことがない人間なのだ。

 この世界で言葉が通じることは分かったけれど、アタシがありつける仕事があるのかわからない。もちろん一番楽なのは今まで通りゲイバーに勤めることだけど。でもこの地にそんなゲイバーなんて場所があるのかしら。異種族のゲイってどんなのなのかしら。イケメンの種族ってなに? そもそもこんなドロドロのスライムなんて雇ってくれるのか。

 まだまだ分からないことばかりだ。
 でももう不安はない。

 アタシは何がなんでも生きるって決めた。
 一度失った命、新たな場所で咲かせられるなら一花咲かせたい。


 アタシはやってやるわ。
 異世界で働いて、異世界で生きてやる。


続く


今ならあたいの投げキッス付きよ👄