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人に好かれている物や人物を見ると「それ自分は嫌いです」と伝える人のこと。




 《自分の嫌いなもの》が多くの人に大絶賛されていたり、世間で流行っていたり、周りの人間から褒めそやされている時がある。


 あたいも経験があるし、そういうことはきっと誰にでもあることだろう。

 《自分の好きなもの》が別段、好かれていなかったりするように、《自分の嫌いなもの》だってべつに周りの人は嫌っていなかったりするもんだ。好悪なんて人それぞれで、人によって度合いも異なるし、相手に合わせる必要も無いのだから。

 そんな風に、生きていれば自分の嫌いなものを誰かが「これ好き」って評価している瞬間に立ち会うことが往々にしてあるが、その盛り上がってる雰囲気に水を差すように、まるで冷や水を浴びせるようにーー「それ、自分は嫌いです」って言っちゃう人がいる。


 正直、あたいもちょっとその気持ちが分かる。

 さすがに好きだって言ってる人に対して、直接「あたいはそれ苦手なんやわ」だなんて言ったりしないけど、心のうちではこっそりと薄暗い気持ちにはなってる。

 そりゃなるさ人間だもの。

 嫌いな人間やものが目の前で幸せになってると、なんかモヤモヤするよ。ヤケになってお酒も飲んじゃうこともある。みみっちいこと言うけどすこぶる楽しくない。だからあたいの場合、叶うならば嫌いな存在にはできる限り遠いーーどこか知らないところで勝手に幸せになってて欲しいなと思っちゃう。その方があたいも気分がいい。

 でも、そういうみっともなさこそが人間の競争心なんだとも考えてる。むしろそれが無いと「自分も負けずにがんばってやるぞ」って気持ちも湧きづらい、とあたいは思う。というかそう思いたい。そうじゃないと嫌悪感を募らせる自分に罪悪感とか後ろめたさが生まれちゃって、自分まで嫌いになっちゃうから。


 そんな競争心ではあるが、これもまた取扱注意な感情の一つで、それに飲まれればメラメラと燃えて自身の身を焦がしてしまうこともある。だからこそ、あたいは嫌いという感情に襲われても、努めて冷静であろうとはする。

 例えばあたいの場合、表向きにはモヤモヤを出さない。嫌いな存在の活躍や好評を見ても、一旦は適当に見なかったことにしてみたり、自分を律して「べつにイライラする必要なんて無い」って言い聞かせたりする。そして自身の克己心を健全に煽って努力を促す。「負けるなあたい、頑張れあたい」と頬を叩くように自分に喝を入れるのだ。

 そんでもって、絶賛してる人に「コレいいよね」と賛同を求められたら穏便に済ますために同調したりもする。そのくらいはする。じゃないと余計な諍いも生むし、一旦怒ればその怒りに感情全部が持って行かれて疲れてしまう。

 それに、なんせ《好き嫌い》と《良い悪い》は違うから。

 嫌いって感情に引っ張られて、世間や他人の持つ《良い》って評価をあたいは腐したくは無い。確か「自分の逆鱗は、誰かにとってはラコステ」みたいな格言があったはずだ。自分の嫌悪する対象は、誰かにとって嗜好品や大事なものだったりする。それくらいは判断する冷静さを持っていたい。

 でも何度も書くけれどやっぱり内心はやや面白くはないのよ。だって人間だから。理性と同じくらい本能がざわつくのだ。どんな人間であっても、きっと心の内側にざわつく本能や野生がある。それが無い人間は聖人じゃなく、ただの不感だ。だからあたいも人間なのでざわつく。

 人間ならみんなそんなもんや。嫌いに対してほどよく心がざわつく。誰もがそんなもんなんやと、あたいは思う。


 もしかするとみんなにもそんなことーー「それ自分は嫌いなのにな」と思う瞬間があったかもしれないし、そんな感じのことを《人から言われた経験》もあるかもしれない。

 だからこそ、今回の記事では「それ自分は嫌いなんですけど」とわざわざ他人に伝える人の気持ちを考えてみる。

 あまり好ましく思われない《他人の価値観に嫌悪感を示す》という行為の内心を、勝手に言語化することで、少しでもその心理がちっぽけで、それでいて人間として真っ当で、そんなもん人間なら誰だって抱える当たり前の感情だってことを伝えたい。

 ほな書いていくで。


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ここはあなたの宿であり、別荘であり、療養地。 あたいが毎月4本以上の文章を温泉のようにドバドバと湧かせて、かけながす。 内容はさまざまな思…

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