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松村宗棍の上段蹴り

屋部憲通やぶけんつうは本部朝基の親友で、2人は若年の頃より一緒に稽古した仲だったが、本部朝基は息子の宗家(本部朝正もとぶちょうせい)にこんなことを語っていた。

「屋部は壁に背を付けて足を蹴上けあげて、蹴った足のつま先が後ろの壁につくことができた。たいしたものだ」

要するに、屋部先生は180度近い開脚による上段蹴りができたということだが、本部朝基は敵の帯から上は蹴らなかったので、同じ稽古仲間でも技に対する考え方には違いがあったのだろう。

ところで、屋部先生のこの蹴りに似た蹴りを松村先生もしていたというエピソードがある。本部朝基『私の唐手術』(1932)に以下の記述がある。

「松村先生は、……中略……足を自由に扱い、よく蹴り上げることに妙であった。時に、同輩の人が背後から抱き止めて彼を試みんとした時、彼は手の自由を失いながらも、自由に足を左右に蹴上げ、背後より抱き締めている人を蹴倒したそうである。」

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つまり、松村先生も屋部先生同様に180度近い開脚をして蹴り上げ、肩越しに背後の人間を蹴り倒すことができたわけである。

冒頭写真:松村宗棍が唐手を教えていた識名園。

さて、中国武術には、下の動画の中で「正踢腿せいてきたい」という名で紹介されているような同種の蹴りがある。

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本部朝基は著書で、松村先生は中国へ渡って「唐手からて」――この場合は文字通りの中国武術――を学んできたと書いているので、想像をたくましくして考えると、松村先生はこの蹴りを中国で学んできて、それを愛弟子の屋部先生に教えたのかもしれない。

しかし、松村先生の上段蹴りは現在の首里手各派に伝わっていないし、そのような蹴りを松村先生や屋部先生がしていた、というエピソードも本部朝基以外は語っていない。また「松村……」と名の付く各種の型にも、この蹴りは見いだせない。つまり、この蹴りの存在も技法も首里手からは忘れ去られてしまった。

ところで、本部御殿手には、下の動画にあるように、これに似た蹴りが棒蹴ぼうげり(沖縄方言でボウジリ)という名称で伝えられている。

動画の演武者は多聞館の新崎師範だが、上原先生からとくにこの蹴りを教わった人である。

本部御殿手は本部家の家伝の武術だが、松村先生は武術の家庭教師(ヤカー)として本部御殿に教えにきていたので、ひょっとして棒蹴りは松村先生から伝わったのかもしれない。もちろん、松村先生以前に、この蹴りが首里手に存在した可能性もある。

棒蹴りでは、つま先で相手の顎を蹴り上げたり、踵で胸を蹴り降ろしたりする。上原清吉は、松村先生と同じように、背後にある板を肩越しに蹴る稽古もしたという。また、上原先生によると、朝勇先生は棒蹴りをして、上げきった姿勢でそのまま足を停止することができた。朝勇先生が60歳を過ぎてからの話である。

いずれにしろ、古流首里手は、現代の首里手とは様々な点でその特徴を異にしていたのである。

出典:
「松村宗棍の上段蹴り」(アメブロ、2017年1月8日)。


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