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武田惣角と西郷頼母

武田惣角の系図と戸籍」で述べたように、武田氏の戸籍に記されている職分は農民であった。実は武田氏の弟子の佐川幸義(1902 - 1998)も「二十歳の頃、たまたま武田惣角先生の戸籍に平民と書いてあるのを見た」という(注1)。

戦前の戸籍には「族称」という欄があって、そこには華族、士族、平民といった身分が記載されていた。この記載は昭和22(1947)年の民法改正まで続いた。したがって、もし武田氏が伝書に記されていた通り「旧会津藩士」だったならば、戸籍には士族と記載されていなければならない。

言い換えるならば、戸籍の族称が平民ならば旧会津藩士という肩書は偽りだったことになる。そうなると、清和天皇から始まり源義光(新羅三郎)を祖とする大東流の系図そのものにも疑問が生じてくる。農民の家系に貴重な武術が何百年も連綿と受け継がれてきたということはありうるだろうか。

佐川氏の20歳は、満なら大正11(1922)年頃、数えなら大正10(1921)年になる。おそらく佐川氏はその頃からこうした疑念を抱いていたのであろう。

また、このことは武田氏が西郷頼母(1830 - 1903)に大東流を習ったという説にも疑問を投げかける。西郷はもと会津藩の家老で身分意識が強かったと言われる。そのような人物が血縁でもない平民に大東流を伝授するであろうか。一説によると、武田氏は明治31(1898)年に西郷より大東流を習ったとされるが、その頃ならまだ一般にも旧藩時代の身分意識が残っていたはずである。

西郷頼母は戊辰戦争(1868)のとき母、妻、妹、娘5人、合計9人の家族を亡くし、生き残った長男有鄰ものちに病没した。そして、西郷四郎を養子に迎えた。西郷四郎は「講道館四天王」の一人で武才にも恵まれた人物であった。しかし、西郷が養子の四郎に大東流を伝授したという記録はこれまで発見されていない。

西郷頼母(保科近悳)と西郷四郎

佐川氏が「西郷頼母の写真を見るととても合気をやったとは思えない。(中略)やはり武田先生が考えたものだと思う」(注2)と語っていたのは、単に写真の印象からだけでなく、両者の身分差を考えた場合、大東流を伝授したとは時代状況的にも考え難いと疑念を抱いていたからではなかろうか。

実は、西郷頼母説に疑問を抱いていたのは佐川氏だけではない。教授代理に任命された佐藤啓輔(1907-2001)も「西郷頼母は会津藩の筆頭家老であり、仕事の多いそれほどの人があれだけの複雑な柔術を本当に継げたかという疑問があります」と語っている(注3)。

それにしても、西郷頼母から武田惣角に大東流が伝授されたという説は一体いつから語られるようになったのであろうか。またその根拠は何であろうか。まずはこれらの疑問点を解明する必要がある。そして、この解明を通じて、武田氏が別の柔術を学んでいた可能性が明らかとなる。

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