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事件報道を見るたびに、「発達障害の二次障害」とか「グレーゾーン」について考える件

6月9日、新幹線車内で殺傷事件が起きて、残念なことに亡くなった人も出てしまいました。被害者の方のご冥福をお祈りするとともに、ご遺族、さらには事件により怪我やご心痛を味わった方々にもお見舞い申し上げます。

ところで、それとは別になんですが。この事件の内容が判明し出してわりと早い段階から「自閉症」(おそらく広義の「発達障害」を含むニュアンス?)の単語が独り歩きしてて、ちょっと気になるんですよね…。

↓こっちの記事に至っては、最初タイトルに「容疑者自閉症?」とあったのを、各方面から指摘が入ったのか、ひっそり削除されてたりもしますし。

同居してた親族の証言だけで、本人を診察した医師の意見とかも聞いてるわけではないみたいですし、影響力の大きいメディアが軽々しく、まるで「(最近は単に自閉症とはめったに言わないので)発達障害=事件を起こしやすい」みたいな論調を載せると、いま現在も実際にその症状で苦しんでる人への偏見を助長したり、その周囲で支えている人を追い詰めたりすることになりはしないかと危惧しています。

発達障害については、近年かなり世間的に認知も高まってきて、色んな本も出ていますが、それでもまだ本当の意味で理解が進んだとは言えないんじゃないかな?と思うフシもありまして。

実は自分も、大人になってから近所のメンタルクリニックで「心理検査」というのを受けて診断してもらったことあるんですが。いやまあ、こう見えて色々と「生きにくいなあ」と思ってたので…(汗)結論から言うと、自分の場合は「診断名が付くほどではないが、その傾向はある」という感じでした。(細かく説明すると膨大になるのでここでは割愛)なんか、言語とかの面が普通の人以上に能力高い一方で、ある部分(数字に関係することとか)がちょっと異常なくらい低い…だとか、そういう。

でも、これでも診断名がつくほどじゃないんだ、じゃあ本当に大変な人達は、自分なんかより、もっとずっと大変なんだなあ…と驚きました。(かといって自分の生きづらさが緩和されるわけではない!ドーン!)

もちろん、犯罪行為は犯罪行為ですし、仮に本当に容疑者に何らかの発達障害などの傾向があったとしても、それで犯した罪が免じられるわけではありません。そこは峻別しなければいけないけれども、同時に、つねに「どうすれば同種の事件を予防できるのか?」は考え続ける必要があると思います。

今回の件でも、犯人の言動や行動から秋葉原の連続殺傷事件を想起した人は少なくないようですが。あの当時から「消えてしまいたいほどの生きづらさ」を抱える人たちを取り巻く状況は、少しでも改善されていると言えるでしょうか? 自分には、むしろ悪化するばかりのように見えていますね…。

報道では、今回の容疑者の自室にさっそくカメラが入り、お決まりのように読んでいた本のタイトルなどが公開されてたわけなのですが。その内容が、古事記、罪と罰、マクベス、ガリア戦記、あとは旧約聖書の創世記…ううん、何となく傾向があるような、ないような…(考)とりあえず、これだとアニメゲームみたく一足飛びに「有害だから規制しろ!」とは言われ無さそうですね。それと紙に自分にしか読めない感じでび~っしり文字を書いちゃうところとか、ああ、なんか既視感が…ってなったりもしましたが(汗)

何が言いたいかというと、「けっして知能は低くなかったのでは?」「特性を生かせる環境さえ整っていれば、彼には違う未来もあったのでは…?」という、今更言っても仕方ない話ではあるのですが。でも、やっぱり思うのは、彼には「理解者」って、周りにいなかったんだろうな…ということで。

メモの文字の中に自殺の方法として「冬の雪山で遭難死」みたいのを書いていたことからも、なるべく他人に迷惑をかけずに消えたい…というくらいに理性的ではあったんじゃないかと推測します。(登山をそういうことに使っちゃダメというのは一旦置くとして)…たぶん、実際に冬の雪山に行こうとすると、予想以上にお金とか体力とか装備とかが必要で諦めたのかな。。

こういう大きな事件が起こるたびに、容疑者とされた人に発達障害に顕著な特徴が見られたり、実際に診断を受けたり、鬱や自殺願望があったりするたびに、決して誤解するべきでないのは「病気や障害が”ある”から、イコール、自分や他人を殺すのではない」ということです。それは起こった結果であり、そこに至るまでの本人や家族の苦しみ、絶望や孤立感、どこかで適切な社会の側の介入があって、最悪の結果に至る道を止めることは出来なかったのか? という問は、然るべきタイミングで検証されるべきだと思います。

絶望や孤立感というと、自分が今年の4月まで連載してた「オーバーハング!」という漫画に、こういうシーンがありまして。脇役の女の子のキャラなんですけどね(おっと、そういやこの子も「(死にたいから)樹海行きますか…?」とか言って山岳部のメンバーからドン引きされていた。。汗)

実際に過酷ないじめを長い間受けたという人の中には、その後も幻聴や神経過敏、身体的な苦痛にずっと悩まされ続ける場合があるのだそうです。

なので、↑この「もういいや」というのは「もう生きなくていいや。こんなにつらいだけなのなら…」くらいの意味でした。「死にたい」んじゃなく、「生きているのがつらい」んですね。この二つは似てるようで、大きく違うんだと思います。後者は「つらいけど、本当は生きていたい」のですから。

最近では、変な話ですがちょっと「便利」に、発達障害みたいな言葉が使われすぎな気もしなくもないですが(何でもそう言っとけば話が早いから?)本当の本質的なことって「人間とは多様である」なんですよね。色んな人がいて、足だって速い人も遅い人も、勉強が得意な人もそうでない人も、結婚する人もしない人も、職場にうまく適応できる人も、そうでない人もいる。

でも、今はかなり杓子定規に世間が「こう」と決めた型から少しでもはみ出ていると、それは集団行動の効率を下げるコストであり、和を乱す邪魔者であり、ストレス解消の道具としてみんなでブッ叩いて追い出して構わない…みたいな空気が、学校にも職場にも地域にも充満している気がします。

そういう余裕のない空気の中で、行動や態度が「ちょっと人と違う」特性を持った人が、「違うから叩いていい」ターゲットになりやすく、そうやっていじめやハラスメントを継続して受け続けた結果、心身に重い後遺症を負ってしまい(二次障害)、その後の日常生活にも支障をきたしたり、新たな人間関係を築くことに強い困難を覚えるようになって、最終的に全ての社会活動から撤退して、自宅で長期間にわたり、ひきこもってしまう…という一つの支援からこぼれ落ちる「負の定型ルート」があるようです。

そして、社会から隔絶され、身内からも迷惑がられている、こんな自分は生きていても仕方がない、消えてしまいたい…と思いつめるようになり、その果てに「自分」か「他人」を害する、という選択があるのではないかと。(何らかの飛躍した復讐心から犯行に及ぶというケースもあるかもですが)

この絶望に至る「負のルート」を、どこかで止めることは出来ないものか?と考えるのですが。それはやっぱり、あまり社会で深い傷を負わされる前に、まだ診断名が付くともどっちともつかない「グレーゾーン」の子どもの段階で、専門的な知識を持った人に出会って、適切なケアを受けることが出来て、その結果、多動や学習障害が軽減されたり、人付き合いに過剰な苦手感を持たずに済んで、ちょっと変わってるねとかマイペースだねと言われながらも、社会に居場所を見つけられて普通に生きて行けること…だろうと。

それが非常に困難なことに思えるのは、やはりまだまだ社会の側の理解度が低いからなんでしょうかね。学校でも職場でも専門知識を持ったケア要員はいないか全く手が足りないという所が多いようですし。肝心の家庭でも、親の理解が無くてずっと症状が放置され、取り返しのつかない結果に至る場合もありそうです。そして本人はずっと孤独に自分を責め続けてしまう。

でも、周囲が「こういう特性なんだね」ときちんと理解して、環境を整えてあげられたら、人並み以上の能力を発揮する人もいますし、何よりこういう悲惨な事件を減らせる可能性もあるなら、考える価値はあると思うのです。…問題は、今の日本社会の側にそうする余裕が無くなってることですが。

ツイッターとかで流れてくる発達障害を扱った漫画とかの内容が、ほとんど自分に当てはまることが多かったので、個人的に心理検査とか診断を受けてみた結果、自分には正式な診断名というのは付かなかったのですが。それでも、幼少時の自らのエピソードを亡くなった母から聞いてた感じでは、相当に育てにくい、よくぞ生き延びたな自分…という子供だったようです(汗)

それでも自分が、こうして曲がりなりにも社会生活を送りつつ生きていられるのは、母が人知れず育児情報を集めたり勉強してくれたようで。普通一般よりも育てにくい子ではあるけど、なるべく自分のやりたいことを否定しないように、意識してのびのび育ててくれたように思います。忘れ物とか遅刻とか教室で動き回っちゃうとか、致命的(?)なところは何とか直しつつ、それ以外はわりとやりたいように、絵が好きなら飽きるまで描かせとくとか辛抱強く見守ってくれたのだな…と今にして思います。だからこそ、もしも全く違う環境で育っていたら、自分は今でも生きていただろうか? と。

凶悪犯罪が起きるたびに、世間では「あれは自分たちとは異質な人間が起こした、例外的な事件だ。自分には何も関係ない」という切断処理をして何事もなかったように日常に戻ろうとしますが。我々の個々人が、心のどこかで「あれは別の世界を生きた自分だったかもしれない」という恐れとか想像力みたいなのを忘れないようにしたほうが、結局はみんなが受け入れられて、生きやすい世の中になっていくんじゃないかなあ? と思っています。

「ちょっと変わった子」も「マイペースな子」も、老若男女みんな一人一人が「自分はここにいていいんだ」「生きていていいんだ」と思える、そんな呼吸がしやすい世の中に。変えて行くことが出来れば、自然と凶悪犯罪を減らして行けるのではないかと思います。完全にゼロには出来ないとしても。

↓今回の事件とは違いますが、この記事とかも勉強になったのでご参考に。

追記:容疑者が「冬の雪山で自殺したい」と書いて長野で野宿してたという報道がありましたが。いっそ誰かに教わって本格登山を始めてみればよかったのに!と思いました。信仰と暴力についての本もかなり読んでたようですが、結局は宗教も、登山さえも若者には敷居が高くなりすぎて、彼のような人に居場所を提供できなかった、ということですかね。
自分が「オーバーハング」  を描いていた時。何故スポーツ少年漫画なのに主人公含めてどこか屈折しかけた人物ばかり出てくるのか? と言えば、そういう若者達の「居場所」であって欲しいという願いがあったから、でした。それはきっと、落ちこぼれだったという冒険家の植村直己氏にとっての山、若い頃は荒んでいたというクライマー森田勝氏にとっての岩壁のような…。

こういう内容を広く世の中の人に知らせるための漫画を、誰かが描いた方がいいんじゃないかな? と思って企画書まで作ったことがあるんですが。あいにく未だ実現していないので、どこかの編集部様で興味あると仰って頂けましたら、いつでも資料集めて駆けつけますのでお声がけ下さい!(拝)あと毎回のnote本文の最後にあるサポート機能も、ご参加頂けると作者の今後の活動継続のために大変有り難いですので何卒宜しくお願い致します~(伏)

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