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苦しみとお別れすることが人生だ

毎年私はアドベントからクリスマスの時期に、『クリスマスキャロル』の映画を観て、一年間の人生を振り返るのを習慣としている。今年もその時期がやって来た。毎年同じ映画を観ていると、自分の変化に気がつく。面白いように全く違う箇所に目に留まり違う解釈が生まれてくる。今年も例年と同様そうだった。
この2022年の自分の人生は、この45年間の人生の中でとても大きな変化のあった時間だった。特に何か大きな出来事があったわけではない。内面の変化、と言っていいかもしれない。そしてその変化は、とても良い変化だったと思っている。これまで自分の中にあった苦しみとお別れをする時間になったからだ。そのことについて詳しく述べるのはいずれかの機会にしたい。
とにかく、この映画がどのように感じられたかを述べたいと思う。

幽霊という幻影と苦しみ

クリスマスキャロルは、チャールズ・ディケンズの原作であり、この作品についてあえて詳しく述べる必要はないだろう。金貸しの業突く張りのスクルージが、過去・現在・未来の自分の人生を精霊に導かれて見ることを通じて、善良な人間へと改心をするというストーリーである。

例年は、精霊による改心の意味とか、他者との対話の意味についての視点が浮かび上がってきていた。例えばこんな具合に。

しかし、今年はスクルージにとって、彼の苦しみとは何だったのだろうかと真剣に考えながら観ていた。自分自身の変化と重なることも多いように思ったからだ。

クリスマス前にやってきたマーレーの幽霊と数々の幽霊たち。これらはスクルージの抱える生きる苦しみの表現ではないだろうかと感じた。そうした幻影を見るまでに、スクルージは人生に苦悩していたのではないだろうかと。全くの他者としてマーレーの幽霊やその他の幽霊がスクルージにやってきたのではなく、彼の苦悩の表現として、これらの幽霊が彼に現れるに至ったのではないだろうか。
例えば、何かとても緊張を感じている時、多くの人前で話をする時などがそうだが、人の視線が自分を冷たく見ているように感じる経験をしたことはないだろうか。その延長線上として、スクルージ自身も「私の人生は呪われている」という思いが具現化したものが、マーレーたち幽霊の存在だったのかも知れない。だとすると、彼のその自分の人生への苦しい思いはどこから生まれてきたのだろうか。どう変化していったのだろうか。

人は怒りと悲しみでは命の炎を燃やすことはできない

そこを考えるためにも、彼の苦しみとは何だったのかと注目してみた。よく見ると、過去の精霊が見せる彼の過去の中に様々に現れてきている。
学校の友人たちと仲良くクリスマスを過ごすことができず、一人教室に取り残される寂しい少年のスクルージ。もしかしたら、彼は他の子供達のように無邪気に楽しむことができない苦悩を心の中で抱えていたのかも知れない。それは、何だったのだろうか。
彼にはかつて大切にしていた妹がいた。とても優しいその妹は、少し後のクリスマスの日、スクルージに「お兄ちゃん一緒におうちに帰ろう。お父さんは前よりずっと優しいから。ある時聞いてみたの。”お兄ちゃんが帰ってきてもいい?”と。そうしたら、”そうだね、連れてきなさい”って」と語りかけ、一緒に家族と過ごせるようにしてくれた。この言葉の背後に、家族の中で何があったのだろうかと思う。
しかし、その後しばらくして、貧困が原因なのか一人の息子を残して妹は死んでしまう。
もしかしたら、スクルージは、そうした経験から、貧困への強い恐れ、そして、そのことで妹を失ってしまったことへの罪悪感のようなものを抱えて生きてきたのではないだろうか。
だとすると、自分がもう少し何かしていたら、助けられたのではないか、自分の力が足りないから助けられなかったのではないか、と、実際はそんなことはないのに、そう苦しんで生きてきたのではなかろうかと思うのである。
スクルージは過去に愛する婚約者に出会った。だが、その愛も、スクルージの貧困への強い恐れからもたらされる金への固執によって失われていく。だが、それは妹の死と無関係ではないように思われる。愛する人との別れにおいても、「この世界で最も恐ろしいものは貧困だ」と語ることからもそれは伺える。
彼には、金という確かなもの、だが、不確かであることを同時に指し示すものしか信じられるものがその時はなかったのだ。彼は、過去の罪悪感を感じる経験から逃げるために生きてきたのだから。そこからさらに彼は冷たい心の人間へと変わっていく。

寂しい少年時代を過ごしたスクルージ、妹を助けられなかったという思い、愛する人を失ってしまった苦しみ。それらの苦しみから逃れようと、彼は必死に金を稼ぎ、孤独に生きてきた。
若かった頃からの苦しみが、さらなる苦しみを生む。この苦しみの中で、スクルージは生き延びるために、自分の生きる世界は呪われていると思ったかも知れない。世の中は自分にとって敵だと思ったかも知れない。人々は自分を利用しようとしていると思ったかも知れない。それがますます人々から強欲な人間だと見なされるようになり、そうした人々の目が、さらに彼を冷たい人間に仕向けていったのかも知れない。それは幽霊をクリスマス・イブの夜に見るほどの苦しみであっただろう。
彼を助けることはどうしたらできたのだろうと思う。

スクルージはこれらのことに苦しんでいることをロウソクの形をした過去のクリスマスの精霊に連れ添われて気がつく。しかし、その過去は彼にとってあまりにも苦しいものであったため、過去の精霊のロウソクを帽子をかぶせて消してしまう。
映画では、その帽子がロケットのように空へと放たれるが、その勢いが途中で消えて彼は地面に墜落していく。このシーンも過去にはなんとも感じない、ただのコミカルな演出だと思っていたのだが、何故か今年は、怒りや恐怖を燃やして生きることには限界がある、その炎はすぐに消えて、虚しく墜落していくのだと示しているように思える。人は怒りや恐れ、悲しみでは命の炎を燃やし続けることはできないのだ。

生ける幽霊から生ける人間へ

彼の苦しみとは、彼が生きる喜びを持つことを諦めて生きてきたことにあるのではなかっただろうか。
なぜならば、彼は生ける幽霊として、死せる人生を生きる存在だったからだ。

自分の触れることができない苦しかった過去は、心の奥底に冷凍保存されてきた。その冷凍保存された過去は、彼の人生を凍りつかせ、人生を無意味なものだと告げていただろう。
それらの苦しみに蓋をして生きていても、蓋の向こうから、彼に人生は語りかける。それらの呼び声から耳をふさいで生きていれば、何も感じないことが正しいと思うようになるだろう。そして、自分の日々の感情などどうでも良いものだと思おうとするようになっていくだろう。
自分の感じるものなど何の意味もない。自分は意味のない人間だ。自分には意味がないし、他人の人生も意味がない。この世の中は意味がない。
意味の失われた人生という無味乾燥とした時空間にただ死なずにいる存在であるスクルージ。それは、もはや夜中に現れたマーレーたち幽霊と何が違うのかとすら思われる。

だが、精霊を通じてその苦しみに向き合った時、その苦しみは苦しみではあるが、恐れるものではないことを知った。そして、彼には愛する人を失ってしまった苦しみがあったことも知った。恋人の愛は取り戻せない。けれど、現在と未来の精霊との旅路を通じて、スクルージは自分への愛を取り戻し始める。
自分の召使いのクラチットの息子、ティムを助けること。クラチットの生活を助けること。そのことを通じて、彼は人を助ける喜びを知る。それは、他者の抱える痛みを自分の心の痛みとして受け入れることができる存在だと知ることである。
人に施す喜びを知る。施したいと思う気持ちを感じていることを恐れず受け入れることを知る。そのことを恐れる必要はないのだと知る。
失ったすべてを取り戻すことはできなくても、人生が無意味なわけではないのだ。いや、人生が無意味なものでないと気がつくために、数々のものを失ってきたのかもしれないからだ。

人生の晩年を迎えたスクルージにとって、自分の人生には意味があることを教えてくれる数々の行いは、自らの人生の苦しみとの和解を告げるものであった。自分自身の過去との良き再会、それは、何にも代えがたい大きな喜びであっただろう。

背負えない苦しみとのお別れもまた人生だ

死せる人間から生ける人間として、人生と再会したスクルージの人生の旅を思う。彼は過去の自分の無力さ、悲しみ、それらがあっても、今という時間において、意味ある存在であることが揺るぎないものであると気づくに至った。
しかし思うのだ。
妹の死の苦しみ。それは彼の背負うべき責任だったのだろうかと。きっとそうではなかったのではないだろうか。自分がどうすることもできなかったことをどこか自分のせいにして生きてきたように思う。もちろん、多くの人を傷つけて生きてきたことは良いことではない。様々な責任を背負うことも人生において大切だろう。だが、自分にはどうすることもできない背負えない責任を背負うことは、その人を苦しめる。
その苦しみとお別れすることもまた人生なのではないか。
その苦しみはあなたの苦しみではないのだ、と。
あなたの人生の苦しみは、もっと大きな喜びとつながったものの中にある。だから、そのことに生きることを恐れないで、と、この物語は語りかけているように思うのだ。
生きることを恐れない。その中の喜びを感じて良い。これまでの苦難の中で、既に得てきた喜びを喜んで良い。
人は二度、人生を生きる可能性をもった存在だとこの物語は教えてくれるのである。


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