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納骨 共にあるということ

昨日、愛しき友がお墓に納骨された。
仕事が休みだったなら出発の見送りだけでもしたかったのだけど、出勤だったので始業前に休憩室で人知れず黙祷。

儚いなぁ…でも5年間もがんと戦ったんだ、結構しぶとかった。でも、最後はあっという間だった。
強いけど儚い…命ってそういうものなのかもしれない。
暁子は5年間の戦闘期間があったが、事故や災害に巻き込まれたら本当にあっという間だ。どんなに強く生きようが、必要とされていようがいまいが、悲しむ人がいようがいまいが、お金があろうが無かろうが、どんなに惜しまれようと憎まれていようと、人間死ぬときは死ぬ。

よく「死んでしまっても心のなかで生きている」という言い方がある。物語の中でそういうセリフがあったりする。
2時間ドラマなんかで、母親が死んでしまった子供に主人公がそんなことを言うシーンがあったりすると気休めだろうと思ったものだが、実際こういう経験をして頷けるようになってきた。

「心のなかにいる」「心のなかで生きている」は折々で故人を思い出したり、何かを決断するときに故人ならば何と言っただろうかなどと考える事なのだと思った。
あと、魂や幽霊という存在は半信半疑な部分もあるが、疎遠になっていた故人との共通の知り合いとばったり再会したり、ちょっと不思議だなと思うような事があると、故人に導かれたのだろうかと思うような事もある。

お通夜の晩、斎場を出てたまたま入った居酒屋がオープン当日で全品半額だった。これは暁子のおかげだとみんなで頷いた。
もちろん、こじつけと言ってしまえばそうである。しかし、これもまた故人を忘れないでいる一つの方法なのだろうと思う。

「人間は二度死ぬ」という言い方もある。一度目は身体の死、二度目は周囲の人間から忘れ去られる死。

暁子は一度死んでしまったが、少なくとも二度目の死は私や友人や暁子の子供たちがこの世を去るまでは無いだろう。
それぞれの心のなかで暁子は生き続けるのだ。

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