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38 なじめない「ぼっち」

 前回は、私たちの思考は自分自身では理性的でしっかりとしているようであっても常に何かの刺激に反応するようになっていて、それで人生の時間を無駄にしてしまっていると書きました。今回は、ちょうど面白い記事が出ていましたので紹介してみたいと考えています。

 まずは以下の記事を読んでみてください。あなたはこの記事の内容をどう考え、そしてどう反応するでしょうか?

 概要はこうです。
1) 職場になじめない人がいる。
 なじめない人のパターンは以下の3つ。
 a) 一人でいる事が多く孤立していると感じる。
 b) チームの中での立ち位置がわからず、疎外感を感じる。
 c) 価値感や文化に合わせる事ができないと感じる。
2) なじめない人にはパターンがある。
 a) 過去の失敗等によって新しい関係に緊張してしまう。
 b) 自己肯定感が低い。
 c) 「自分は違う」という思いがある。
3) 解決に向けて、習慣にすべき事。
 a) お互いの共通点(既知)に関する質問をしてみる。
 b) 相手を名前で呼んでみる。
 c) 喜怒哀楽を体現してみる。
4) (追加) もしなじめない人がいたら助け船を出してあげて。

 新しく入った職場は学校、その他のグループでなじめないと感じる事は多いものです。私にも経験があります。経験があるどころか、私の人生の中ではこうした疎外感や孤独感を感じる事がごく普通と言えますし、人生の大きな課題にもなっています。現実の問題として、私は転職や移動が多かった事によります。新卒で会社に入った時はもちろんですが、それ以前の学校に入ったりクラス変えもそうでした。クラブ活動でも、そこでする活動自体よりも、クラブのメンバーの中になじむ方がよほど大きな問題だったほどで、「今日はミーティングだよ」と言われただけで「何をするのだろう」「どうすれば良いのだろう」とドキドキしていました。

 そうして、私は考えます。どうしたらここに、そして皆となじめるだろう?、と。解決策は上の記事に書いてありますが、そんな事は知りませんし、対人コミュニケーションのスキルもありませんから困るわけです。誰かに話しかけられたら不快に思われないように心がけたり、回された仕事をきっちりやったり、少なくとも見た目一所懸命やっているように振る舞ったりするのです。そうしているうちになんとなくなじめているような感じがして来るのですが、心底なじめているかというとそうでもありません。難しいのです。ですから私はいつまで経っても、そしてどこへ行っても地に足がついた気がしませんでした。

 あなたの場合はいかがですか?

 と、聞くような言葉を書きましたが、実はそんな事、本気で聞いてはいません。試しただけです。すみませんでした。ですが、上の記事を読んだ時に「そうすれば良いのか」とか「なるほど」とか「自分にはできないな」とかいろいろ考えたのではないかと想像します。誰にとっても孤独、疎外感、そして周囲にどう思われているかというのは大問題です。それこそ人生の大問題と言って構わないでしょう。その問題解決のために私たちは相当の努力をし労力を注ぎ込み、そして時間を費やします。SNSで共感を得たり♡をもらう為に記事をせっせと書きます。(ここ、笑うところです)

 つまり、この記事はそれを前提にして書かれているのです。簡単に言えば、人は周囲に「なじめないといけない」という事です。もっと言えば、「チームやグループではそこで上手くやっていけるべき」が全ての前提だという事です。それが達成されていなければその先にある仕事の成果は無いし、そこから得るものも無いのです。

 青色発光ダイオードを発明して中村さんは職場になじめずに、どちらかというと弾き出された存在だったそうです。発明はそこからの成果ではありましたが、会社の通常業務については何の成果も出せなかったと想像されます。何しろ弾き出されていましたから。もしあの発明が無ければ会社のお荷物としていじめられ、自己都合退職に追い込まれていたかもしれません。誰でも孤独にやっていてノーベル賞を取る事はできませんから、なじむのは基本的に必要な事なのです。

 ですが、なじむ事には大きな弊害もあります。それは自分が自分でなくなるというものです。そして自分の意見を言えなくなるという事もあります。自分を隠して周囲に合わせて生き続けなくてはならなくなるのです。それは「なじむ」を優先するあまりに自分の人生を後回しにしてしまうからです。

 ですが、(またここで同じ「ですが」を使います) なじむを優先する生き方は私たちにとって幸福を得るやり方である事は否定できません。ですから、これは「選択」の問題です。それでも良いのです。

 ただ、もう一つの事実にも注目しておかなくてはなりません。それは、もしあなたが学校や職場などでなじむを優先していたにしても、その期間は有限です。学校は数年したら卒業してしまい、職場は定年によってお役御免にされてしまいます。終わったところで人生は終わらず、その先も続くのです。そこで新たになじむべき仲間やグループができた場合には、ゼロからやり直さなければならず、できない場合にはそれまでと違う「ぼっち人生」を開拓する事になります。いずれにせよ大変です。


さて、ここで再び話は違うところへ飛びます。飛ぶ先は別の階層です。

 最初に上の記事を読んで、あなたは「反応」したと思います。「なじめない」という問題を提示されて、あなたも頭の中でそれを問題に設定しました。これを読むまであなたはそれについて深く考えてはいませんでしたが、提示された途端にそれが問題になり、そして回答を求めました。それこそが「反応」です。反応は「思考」ではありません。

 もし考えているのであれば、問題の設定は自分でしていなければなりません。「職場でなじめない」というのを提示されたら、簡単に「こうすれば良い」と反応するのとは違います。「なじめない」は本当に問題なのか? それは誰にとって問題なのか? なぜ問題と言えるのか? 短期的、または長期的に問題か? そこを考えるのが先です。その上で、例えば「職場は仕事をするところでお友達作りの場所じゃない」と問題自体を否定する事も可能でしょうし、「同種の人しかいない職場で先輩に教えを乞うしかない」ならその人の専門性の問題、メンタル的な問題とするならカウンセリングや坐禅でもという話ですし、何でも良いのですが要は問題のところから自分で考えるという事です。

 そうする事で、(また複雑にレイヤーを跨いで話は戻りますが) 「ぼっち」でも寂しくなく生きていけます。何かに反応などしないでいつでも自分で考える事、それ自体が孤独ですが、逆に自分自身の人生の楽しみだからです。

 今回はちょっとわかり難かったかもしれません。すみません。

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