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50 自由が嫌い

 前回は、私たちが為政者からどう見られているかということを書きました。振り返って多くは書きませんが、なぜこの見方が大事かと言いますと、それによって私たちがどう教育されているか、どう扱われているか、そして私たちがそれに慣れてしまって気付かずにいるというのを教えてくれるからです。

 さて、今日は最終回になります。あっ、だからと言って何も特別なことはありません。多くを期待しないでください。いつものように淡々と書くだけですから。

 「慣れてしまって気付かずにいる」と上に書きました。では、それは何に?、と聞かれると慣れてしまっているが故に誰も答えられません。つまりは自分の考えや自分の置かれている環境、そして細かく言えば自分の癖のようなものが当たり前になっているということです。普通ですよね。自分の立っている地面は平らで上下は動かないと思い込んでいるのでたまに地球が球に近い形をしている説は嘘だと言い出す人もいます。それと似ています。もちろん私も球形の地球なんてこの眼で見たことはありませんが。(←ここ、笑うところです)

 そうそう、気付かずにいると言えば、最初のところで書いたこれです。時間があれば読み返していただくと良いです。

 「人は自信が無い自分が好き」と書きましたけれども、普通に考えてそんなわけはありません。自信の無い状態には強いネガティブなイメージがありますから嫌いなはずです。その証拠に世の中には「ポジティブ」礼賛発言が多いですし「自己肯定感」という言葉も流行しています。前者は知る限り何十年も同じような意味で同じようなシチュエーションの中で使われています。後者は比較的新しい流行ですがそれにしても10年を超えるかと思われます。

 これが何を意味しているかと言えば、常にプラスの方へ向かって歩いて行こうという掛け声の前で、実際の自分はその手前のところに留まっているということです。つまりプラスになるところの手前にずっといるのです。登り坂の先を見上げていることで自分がプラスに向かっている気になっていても実際自分が立っている場所は低い地面でずっと変わらないのです。私たちはいつもそれに気付きません。いえ、気付こうとすれば気付けますがそうはしません。そうした姿勢でいるのが好きだからです。自己啓発本を何冊も買い続けて結果を出さず、そんなふうに頑張る自分が好きという感じです。

 いえ、これは他人事ではありません。誰でもそうなります。誰でも自分のそうした小さな箱庭に閉じこもって一所懸命やっている自分でいたいのです。

 そして私たちは何かに一所懸命になります。勉強、試験、進学や就職、昇進に実績、地域、お金、持ち物によるステイタス。ですが一歩引いて見てみますと、それは私たちが何か忘れるためにやっていることだと言えないでしょうか? そう、私たちがいくら頑張っても変えにくいもの、いくら時間をかけても得にくいもの、そして私たちがその箱庭に留まっていることを忘れるためにです。その結果、私たちは自分の得たいものを得るより他人の評価する何かを選び、自由に選び取るつもりで単に与えられた選択肢を選ぶのです。そしてツケはある日必ず支払わねばなりません。何事にも時間切れはあるのです。

 箱庭は壁で囲まれているのです。そう、私たちはそれを選んだのですから。


 何か新しい事をする場合に私たちは言います。「ある程度の規則や規制は必要だよね」と。スポーツと同じでルールがきっちりと決まっている方がやりやすいので、確かにそうだと皆が考えます。そして言います。「○○は規制すべきだ!」 そうして私たちの生きる社会は「国民の人権は最大限に尊重される」ただし「公共の福祉に反しない限りはね」の但し書きの部分を最大限に増大させてきました。この状態を見た隣国は言います。「日本は世界で一番成功した社会主義国ですね。うちの国はそれを目指していたけれど・・・ゴニョゴニョ」

 私たちは当然のように何事にもルールが必要で、ルールがあった方が安心で安全だと考えています。けれどもその時の自分自身の真意には全く注目しません。その真意とは、そのことに関して「それ以上何も考えなくて良い」「自分自身で判断しなくてよい」さらには「他の誰かだけが有利で自分が不利になるのを避けたい」というものです。長年そうして生きてきた私たちの生きる場所は公共の福祉が個人の自由に優先される社会になっていますが、私たちにはそれが当然過ぎて気付きません。

 以前に私は他国に住んでいてそこで自動車を運転していました。私は運転しながらいつも違和感を感じました。その理由は、道路のどこにも制限速度が書かれていないのです。日本であれば必ずどこかに書かれていて、親切にもここからは制限速度が変わったよと教えてくれますが、それが無いのでどの程度のスピードで走って良いかがわかりません。その結果、高速道路と一般道の違いは信号機が有るか無いかだけでした。

 崖のような危険な場所がある場合、日本では「立入禁止」看板とともにそこは鉄柵で囲われています。ある別の国では看板に「ここから先はおまえ自身のリスクで行け」と書いてあり、また別の国では「ここに入ったら撃つぞ」と銃を構えたピクトグラムが掲げてあります。権利と自由、そして権威の在り方の違いがよく表れています。

 いえ、私はこの社会のシステムを批判したいとは考えていませんよ。お間違えなく。私たちにとってそれより重要なのは私たち自身の頭の中がどうなっているかをまず知ることの方です。私たちが自分の自由や権利についてどう考えていて、それを誰に依存して実現しようとしているか、もしくは考えるのを放棄して楽したいと考えているかということです。


 さて、最初のところに戻ります。私たちはこの地面が平らだと思うことに慣れてしまっています。普通に立っていれば問題なく立っていられますから。ですが、それは単に慣れているだけではないでしょうか? 本当は傾いているというのに。私たちは何不自由なく生活ができていて問題がありません。でも、そこには注釈が付きます。「提示された選択肢を選び続けていればね」

 私たちの前にはいつか必ず選択肢の提示されない時がやってきますきます。その時に残された選択肢と言ったら、テレビのチャンネルと受ける介護のメニューだけかもしれません。

 終わり


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