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48 神様の使い方

 前回は、多くの場合人は一つの知識を頭に入れるともうそれだけで満足してしまってそれ以上の事を何も考えなくなってしまうという内容でした。これも以前の記事で書きましたように知識を思考の代替品にしてしまうという事の一つの現れでしょう。つまり考える労力を少しでも減らそ、サボろうという脳の働きに繋がります。私たちのこの重い脳というやつは、いつもいかにサボれるかをサボらず一所懸命考えているのですね。

 ところで、書こうと考えていたことがあるのですが、戦争が起きてしまったのと、我が家である事が話題に上がったのもあって書く内容を変えました。ああ、そんなことをわざわざ言わなくても勝手に書いてしまえばそれで済むのに、と思いつつ前置きしています。

 実は、私は去年までイスラム教の国に住んでいました。ですか周りにはイスラム教徒の人たちがいっぱいいました。だからといって特に何があるわけではないのです。ただ食べる物に制限がありますから豚肉の料理が少ないとかそんな程度でした。話せば彼らも普通の人であって困りもしませんし険悪になるなどという事も全くありません。ただ、今回のようにイスラエル周辺で争い事がありますとFacebookの中身が騒々しくなります。会話の中ではそんなことは無いですが。

 さて、そういうところを念頭に置いて、我が家の中の話題を紹介しましょう。いつものように回りくどいと感じられるかもしれませんが、そこにちょっとヒントがありそうなので我慢してください。

 妻は実の姉ととても仲が悪いです。謂わば、お互い常時警戒体制でいて、何かあるとスワ!(←昭和っぽい言い方)戦闘開始か!?という感じです。ある時、その姉から連絡があり、母の介護に疲れたとの事でした。自分ばかりやらせておいて妹のあなたは!、ということだったわけです。それで妻は単身帰国して母の介護を交代することにしました。それが母にとっても良いと思われましたし、何より変な不満を濃縮され続けるよりはマシだと考えたからです。

 そしていざ交代となった時に問題が、いえ、争いが発生しました。姉は妻に家を自由にされたりこれまでやってきた成果を全て覆されるのを嫌ったのでしょう。そして、妻のやり方はダメだ、やはり自分が介護を続けると翻しました。妻はせっかくいろいろな準備をし、帰国して介護をするつもりだった、その出鼻を挫かれたわけです。そしてしばらくは抗い、何があっても続けるつもりでした。

 そんな時です、妻はこう考えたそうです。ちょうど近所に住む友人がキリスト教会に通っている人だったので自分もそこに通うようにしようかと。その時点から今は数年経過していますので気持ちの整理ができていて、なぜそう考えたのかは言葉できちんと説明できるようになっています。説明によれば、あの時はあそこ(実家)にたった一人でいて、自分が良かれと思ってやった事を姉に否定され続け、気持ちが弱くなってしまったのでした。その時、何となく感じたのは誰でも良いから肩を支えて欲しいという気持ちだったそうです。誰でも良いのですが、家の中のことを他人にベラベラと話すのも憚られますし、それが姉の耳に入れば火に油であることは目に見えています。だから妻が選んだのは神様だったということなのです。


 はい、体験談はここで終わりです。ここまでのお話で、ハッと思ったわけです。これまで私は20年以上、たぶん25年間ほどでしょうか、日本を離れていてその間いろいろな宗教の人たちと生活していたのですが、これには気付くことがありませんでした。多くの宗教の共通点と言ったら、それがどんなものであれ「神様」というものの存在を信じていることだけだと考えていたのです。ですが、事もあろうにこうして日本で生活するようになって、しかもずっと家に一緒にいた妻との話の中で気付くとは、まったく何ということでしょう。ビックリです。

 もったいぶるのはこれくらいにして、ちゃんと言いましょう。神様は真理の光で我々を導くものと思いきや、実は単に私たちを後ろから支えるために存在するという可能性があるのです。自分自身が曖昧であったり、他人の言動に揺さぶられるほど自信が無くて立っている時にサポートを提供する存在としての神です。そうした存在としての神というものがあるとは、これまで生きてきて考えもしませんでした。

 ですが、この世界で起きている多くの問題、つまり争いですが、それらを説明するにはこのアイデアは有用であるような気がします。この世の中に宗教を信じている人は多くいます。ですが、きちんと経典を読み込んでいる人はどれだけいるでしょうか? 宗教の経典はそのほとんどが抽象的でわかりにくく、寓話のようなものから解釈しなければならないものさえあります。それを学校で文字習うより先に教えられたり、時には学校より優先されることすらあるのです。学校でいろいろな知識を身に付けたにせよ、多くの人は他人の言動に対してすぐに感情的になってしまいます。そんな我々人間が神をどう利用するだろうかと考えますと、それはもう言うまでもないでしょう。

 自らの感情の動きを正当化する為に神の名を唱えるのです。そしてそれが個人から集団になれば何が起きるかは誰にもわかります。自分自身できちんと何かを考えられずに得た結論を神に背中から支えてもらう。そして集団がさらにそれを支持するとしたら、これはもう・・・(言わない)


 皆さん、自分自身の頭でちゃんと考えていると言えますか? 誰かの支えがまだ必要ですか? 集団の中で皆がこうだから自分も、なんてことありませんか?

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