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海外旅行の経験無し、英語は話せず、そんな私が旅行業界へ就職、海外添乗へ、そして・・・。

進学、そして就職・・・

私は、20歳で旅行業界に就職するまで、進学でも就職でも真剣に将来を考えて進路を決めたことはなく、努力をしたこともなかった。

受験勉強など、まともにした記憶はない。

高校進学は担任教師から偏差値から見て無理だと言われていたにもかかわらず、「自宅に近い」という理由だけで受験を決めた。案の定、試験は全く分からなかったが、マークシートであったことが幸いし、運だけで合格。

大学は、推薦に必要な単位を無理矢理貰い、面接と小論文だけという受験だったにもかかわらず不合格。一浪してなどという目標も意欲も無く、同じクラスの斜め後ろに座っていた友人に誘われたという理由だけで、旅行の専門学校へ入学。

就職は、専門学校の実習で夏季アルバイトをさせられた会社から「このまま正社員になるか?」と言われただけで決めてしまった。

まさに運だけに頼り、流れに逆らわない、という「意思?」だけを貫いて進学から就職まで決めてきたのである。

旅行が好きだったわけでもなく、専門学校の実習授業で行った香港が初の海外旅行経験、国内でさえ、旅と言って良いか分からない車で数時間の温泉地だけ。

地理や世界史の成績は最低、英語に至っては初歩的な関係代名詞で挫折、専門学校の英会話のクラス分けでも一番下に分類され、何事にも努力をしない私は、2年進級時には「英語を避ける」という理由で国内課を専攻した。

そんな者が “ あの頃の旅行業界 ” に入り、“ 海外秘境専門の旅行会社 ” で働くことなど、今から考えれば身の毛もよだつ行動だったとしか言いようがない。

実際、私はそれから10年間、その会社でそれまで何の努力もしなかったツケ分も含めた、苦労に襲われ、試練に立ち向かわねばならない羽目に陥るのである。

私が20歳で就職した “ あの頃の旅行業界 ” とは、それまで高額商品だった海外旅行の「格安競争」が始まりだした頃であり、今では最大手であるH○○も設立からそれほど経っておらず、格安商品販売の筆頭とし出始めた頃である。

各社が「格安航空券」「格安パッケージツアー」の価格競争に励むほど、海外旅行は身近になり、海外渡航者数は年々増加、そして旅行業界は薄利多売の業界へと変化していった時代であった。

しかし、私が入社した会社はそんな「薄利多売」には乗らず、ある特色を持って強みとしていた。

“ 海外秘境専門の旅行会社 ” である。


私が入社した頃は、アフリカ専門店と称し、ケニア・タンザニアのサファリツアー、ザイール(現コンゴ民主共和国)でのゴリラ探索ツアーなどのツアーを企画・主催していた。

今でこそ、ケニア・タンザニアツアーなどさほど珍しくもなく、秘境などと言える国ではなくなっているが、この頃はまだアフリカの地は遠く、情報も少ないところであり、大手でさえもあまり手を付けることを避けていた。ケニアなどのツアーは、ほぼこの会社ともう一社の2社のみで二分していたような時代であった。

大手でも手を付けない「秘境地域」。社員10名ほどの小さな会社だけに、その担当は企画から仕入、広告、パンフレット作成、査証取得、電話・カウンター接客、空港見送り、そして年に数回の添乗まで、全ての業務をしなければならない。

もう一度言う、海外旅行経験は専門学校実習授業で行った香港のみ、地理の知識も無く、英語も話せない20歳の専門学校出の私。

その私が入社してすぐ、大手でも手を付けていない、その会社の国々を扱う「アフリカセクション」へ配属されたのである。

「このまま正社員になるか?」と言われ、何も考えずに、特に好きでも無い旅行業に足を踏み入れたことを後悔したのは、入社のわずか10日後、そして辞めようと決意したのは1ヶ月後であり、その場所は、パキスタンのカラチであった。


ケニア添乗決まる・・・

4月1日に入社してわずか10日後に告げられたのは、GWのケニアツアーに添乗員として同行してもらう、という社長からの言葉であった。

アフリカセクションに配属と聞かされた時には、

(まあ、専門的な知識が必要だし、いろいろ教わりながら経験を積むしかないな・・・。)

と思っていたが、それは、この時代の社員10名ほどの小さな旅行会社をなめた考えであったのだ。

試用期間も無く、新人研修も無い。

そもそも、アルバイトを筆記試験もせず、面接もせず、「入るか?」の質問だけで採用してしまうような会社なのだ。

もちろんお客様が20名を超える人数となっていたこともあって、一人で行かされるわけではなく、社長に同行するサブ添乗という形ではあったが、4月1日入社した者が、まさかその月の28日から、地図上やニュースでしか見たことのない、遠いアフリカのケニアへ行かされるなど予想もせず、考えられないことであった。

英語が出来ないこと、まだケニアの知識もアフリカの知識も無いこと、飛行機に乗ったのは専門学校で行った香港の時だけということなどを猛烈にアピールして添乗を回避しようとしたのも、無理の無いこととして理解してもらえるだろう。

そもそも、添乗するために必要な資格(現、旅程管理主任者)をその時の私は持っていなかったのだ。今、考えれば問題である。

しかし、社長だけではなく、この時代の小さな旅行会社の社員たちは、一癖も二癖もある化け物揃いだったと言ってよい。

誰もこの決定に疑問も持たず、反対もせず、

「資格など無くても仕事はできる!」「英語も知識も実体験で覚えろ!」

という、社長の言葉を当たり前のように容認したのである。

その空気感に飲まれたのか、惑わされたのか、単に何に対しても努力をしない私の諦めグセが出たのか、

「社長が一緒ならば大丈夫かな・・・。」

と受け入れた。いや、私の意見や気持ちなどは関係なく話しは進んだのだ。黄熱病の予防接種を打たされ、コレラの薬を買い、そして香港の出入国印だけだったパスポートの査証ページに、ケニア共和国の査証印が押されたのである。

しかし、やはり私は間違っていた。

その後、そのツアーの参加者希望者は30名まで増え、添乗員1名分を含めて21席しか確保していない4月28日出発の席では足らなくなり、残りの10名ともう一人の添乗員は前日27日の便を利用し、2グループに分かれて出発、乗り換え地であるパキスタンのカラチで合流する、ということになったのだ。

私は一人で20名のお客様を連れ、社長よりも一日遅れの28日の便で出発することになったのである・・・。

カラチでの惨劇

今でこそ、日本からケニアのナイロビ行き航空会社は、中東系・アジア系・欧州系など様々な航空会社が運航、格安航空券も販売しているが、この頃はまだエミレーツ航空は日本に就航しておらず、有名なアジア系・欧州系航空会社は路線はあるものの、格安航空券としては販売しておらず正規運賃のみだったため、パッケージツアーで使用できる航空会社は2社に限られていた。

エア・インディアとパキスタン航空である。

その名からも分かる通り、インドとパキスタンの航空会社であり、南回り、それぞれの乗り換え地はボンベイ(現、ムンバイ)とカラチ。

私が28日に成田から20名のお客様を連れて飛び立ったのは、そのひとつであるパキスタン航空であった。

専門学校の海外実習での香港旅行は、友人や引率の先生と一緒でノースウエスト航空を利用したノンストップ・直行便4~5時間のフライト。人生2度目の海外旅行は、アフリカのケニア、20名のお客様を連れて、パキスタン航空を利用した乗り換え地カラチまででもマニア・バンコク経由の約15時間のフライト。

どう考えても間の経験値が足りない。

成田でのチェックイン・搭乗、経由地での騒動など、ここで書いていてはあまりにも長文になってしまうため省略するが、乗り換え地カラチまでの間に私は心身共に疲れ切っていた。

それでも、カラチに到着すれば・・・、カラチまでお客様を無事に連れていけば・・・、その後は社長と合流できるのだ、という気持ちだけで何とか持ちこたえたのである。

そして・・・ようやくパキスタンのカラチに到着。

これで私一人の勤めは終わる。あとは社長に任せればよいのだ。

しかし・・・

到着したカラチで待っていたのは、乗り継ぐはずであったフライトの欠航であった。カラチからナイロビへの便の運行が中止されていたのである。

その理由は、断食(ラマダン)によるストライキであった・・・。

その後の30有余年(完)

本来であれば、空港内トランジットでナイロビへ向う便に搭乗、その機内で社長のグループと合流するはずであった私と20名のお客様は、パキスタンに入国、空港近くのミッドウェイホテルへと移動させらた。

結果だけ話せば、その後の2日間、カラチで足止めされた。その分ケニアでのナイロビとアンボセリ国立公園の2泊を省略せざるを得なくなり、このケニアツアーは、パキスタンのカラチ2泊+ナクル湖国立公園とマサイマラ国立保護区1泊ずつだけという内容のものとなった。

カラチ滞在中に何があったのか? 社長とはどこで会えたのか? お客様はどうなったのか?

気になることも多いかと思うが、このツアーのその後も含めた詳細は別の機会に「添乗記」としてまとめたいと思うので、それまで取っておくことにする。

私がここまでで伝えたかったことは、旅行が好きでもなく、英語が得意なわけでもなく、何かを目指していたわけでもなく、何も努力していなかった私が、今とはちょっと違う時代の旅行業界に入ったということ、そして、添乗を命じられた入社10日後にはそれを後悔し、1ヶ月後の断食(ラマダン)下のパキスタン・カラチで退職することを決意した、ということである。


しかし・・・私はその後10年間、この会社で働き続けた。

その年の11月には一人でのケニア添乗を体験。

2年目には初のエア・インディア利用での3回目のケニア添乗。

ケニアには合計5回添乗。その後、会社が取扱国を広げると、モンゴル、ミャンマー、ネパール、ギリシャ、スペインなどへも添乗や視察で訪れた。

秘境的な地域へ行けば、当然のごとくトラブルも付いてくる。

エア・インディアでのケニア添乗のときは、帰りのナイロビ発便の大幅遅延により乗継ぎ出来ず、ボンベイ(現、ムンバイ)とデリーの街中をお客様16名とともに全力疾走した。

モンゴルのカラコルム近くの深夜の大草原では宿泊テントが大風で飛ばされ、ネパールのチトワン国立公園では宿泊コテージの中でコウモリと大乱闘・・・。

トラブル体験は添乗だけではない。

一週間ほぼ毎日の成田空港センディング(お客様見送り)での様々な騒動。湾岸戦争時のツアー催行。添乗員が同行しないグループのフライトキャンセル・・・。


書き出せばきりが無い。

そのために、会社での徹夜対応は当たり前、航空会社へ乗り込んでスタッフの帰宅を阻止し、無理矢理解決に当たらせた、なんてこともあった。

何故、辞めなかったのか。今、考えても分からない。

あのカラチの地で退職を考え、帰りのフライトの中では、このままこの仕事を続けた場合のことを想像しただけでゾッとし、すぐにでも退職届を提出するつもりであったにもかかわらず、そうしなかったのは、いや、出来なかったのは、次から次へと起こる問題と、降り注ぐ課題を解決することで忙しすぎたから、としか言い様がない。

そして、この最初の会社では10年、次の会社で8年、今の会社で13年。

それぞれの間に空白期間があるが、合計30年以上、旅行業界に居続けている。

旅行業と一口に言っても、その業種は多種多様である。

一般のお客様のための業種・業務としては、添乗・視察、ツアー企画・販売、パンフレット作成・広告、航空券仕入・販売、査証代理取得+これらに関する営業などがあり、旅行会社のためのものとしては、航空券代理仕入・予約・発券、地上代理手配、査証代理申請+これらに関する営業などがある。

この30年で、これらの一口で旅行業と呼ばれるほとんどの業種と業務を経験してきた。

そんな経験が出来たのは、これまで勤めてきた会社が全て「小さな会社」であったからであったと言ってよい。

大きな会社では、企画は企画、仕入は仕入、販売は販売とそれぞれの専門部署が担当するからだ。

大手には大手の良さがあるだろう。しかし、私は「小さな会社」で働いてきてよかったと感じている。

確かに責任は重く、問題発生の場合に掛かってくる負担も多い。また、一本のツアーを催行するにしても、企画・仕入・広告・販売・接客・予約・発券・空港センディング・添乗・クレーム処理など、全てに対応しなければならない。

ただ、そのひとつひとつが、実力となり、自信となり、次のステップに活かされていくのだ。

今、私は旅行会社のために地上代理手配をする会社に勤めている。

この会社も20名ほどの小さな会社である。

しかし、今は “ あの頃 ” とは違う自分がいる。

取引先は、全国の旅行会社、大手とよばれる旅行会社、私の働く会社とは比較にならないほど売上もあり、従業員も多いところがほとんどだが、どの会社に行っても対等に、いや、心の中では対等以上の気持ちと自信で話しをすることができている。

30年以上前のパキスタンのカラチから始まった様々な経験と、目の前の一件一件の問題を解決・課題対応してきたことが、あの進学や就職に対して何の目的も無く、努力もしなかった、香港しか海外旅行の経験も無く、英語も話せなかった私の中に何かを積み上げたのだと思う。

最初の会社に在職中、エア・インディアの要請で、十数社の旅行会社を集めたケニアに関する説明会に協力する機会があった。

その中には、H○○、J○○、K○○など、最大手と呼ばれる会社も聞きにきており、私はその中でケニアに関するノウハウを説明。考えれば競合他社へ自社の強みのノウハウを教えてしまうという馬鹿な行いだが、あの頃の航空会社の力は絶大であり、断り切れなかった事情もあった。

その後、ケニアやタンザニアのサファリツアーを実施する会社が増え、今では秘境でもなんでもない、気軽に行ける旅行先となっている。

私が企画したツアーに似た旅程のケニアツアーが今でも各社で見られる。

私が付けたツアータイトルそのままで販売されているものもあった。

旅行商品には著作権など無いため、どこの記録にも、誰の記憶にも残ってはいないが、私の中では、旅行業界に、そしてそれらの会社やツアーで旅行されたお客様たちに、何かしらの “ 影響を与えることが出来たのだ ” と勝手に思っている。

私は “ 就職 ” について、相談されたり、聞かれるとこう答える。

“ 会社の大小で決めるな。” “小さな会社の方が面白い。”

大企業だから安心なわけでもなく、小さいから働きがいがないということもない。進学や就職時に考えていたこと、決めていた目標など変わるのが当たり前であり、また変わらなければ進歩はない。入社がゴールでは無く、スタートであり、スタート時よりもスタート後に何をしたか、何を積み重ねたのかが重要なのだ。より様々な経験ができ、それによって、誰かに、世の中に影響を与えられることが、世に貢献することであり、自信に繋がるのだ、と。

= 完 =


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