苦しいこと:金銭管理

それは人に言えないこと(直せないこと)

突然だが、私は2020年10月に実家を出てから、毎月給料以上の生活をしている。実家時代にためた貯金は後もう少しで底をつく。今月も、よく使った。何にかというと、医療代だ。今までは、書籍代などだった。毎月2、3万は使っていたように思う。私は今30代の女性だが、月に美容代も洋服代も何も払わないのに、食事代と書籍代でそういう浪費をするのだからすごいとは思いませんか。私は思いますよ、自分の本の虫加減というか引きこもり加減というか、それでも世間に格好つける浪費しかしないのは。

思えば、書籍にお金を使いまくるというのは、引越しの際の重荷を増やす作業となっているようでも、私がまだ現世に止まる理由のようでもあって面白い。二面性がある。

お金は大事にと思えば思うほど苛立ちが溜まって使ってしまう。なんでだろう。本それ自体は、私を救わない。洋服だろうが、きっと整形とか脱毛とかもそうなんだろうなと思う。それを受け取る「我」自体の感覚に寄る。

お前のせいだ と思っている

この自身の金銭感覚を思うたびに、思うのは親への苛立ちだ。私が本当にしたいことを応援せず、間違った、そこそこの幸せと多大な不幸しかない道へ、間接的に導いたようなものだと思っているからだ。おまえらのせいだ と私の中の私は言っている。金は引き出してやりたいけど、頼りたいとは毛頭思えない、信頼できない。自分の中のなけなしの倫理をかき集めて、「何もしない」を貫いているだけだ。しかもその金も、私が過去に稼いだものなら、勿体ないし、どうでもいい。(この二律背反)だからすぐ、使ってしまうだろう。どうでもいいスナック菓子やコミック誌、そして一時の安息をくれる本に。突発的に湧き上がる洋服や美容代などの高額なものに。

判断基準

本当に欲しいもの がわからないことがある。というかそればかりのような気がする。マストを除けば、何が欲しいのか、わからない。
世話になっている心理士はそれもインナーチャイルドのせいだと言う。そうなんだ。やっぱり、それでも、そうなんだ。
本なんか一番見分けが私の中ではつかない。良い買い物をしたのかそうでなかったのか、が一番わかりづらい商材なのではあるまいか?という本好きの意見に首肯したいが、まじでいらないものは、いらないとその時わかると思う。なんで買ったんだ、という後悔の速度が違う。なんなら店出てから分かる。そういうのはまだ良い。クーリングオフでもなんでも使えばよい。問題はそれ以外、買って1ヶ月たって気づくような代物などだ。これは私の「成長」に役立つとは思えない、とやっと気づく。それか、手に入れるのが少し早すぎた、などもあるだろう。

モノ を買うって案外神聖

ここまで一気呵成にキーボードを打ち続けてふと上記文句が脳裏に浮かんだ。
モノを買う・消費する って案外、というか、モロに神聖な行為だったんじゃないか。自分の器というと矮小に聞こえる。そうではなくて、自分の祈り・願いといったほうがいいだろうか。それにちゃんと準じたモノを仕入れる必要があるのだ。生半可な仕入れは本来許されないはずなのに、私は昨日コンビニでいらない少年サンデー(本当につまらなかった。やっぱり漫画は集英社派です)とお菓子を買い込んで1000円ちょっとすってしまった。私が欲しい胸のドキドキは、仕入れたモノ自体からもたらされたのではなく、これがドキドキさせてくれるモノなのかも、という未確定の期待を持った気になっていただけだった。そのモノからもたらされる効果と、自身の期待が見合っていない。いや、自身の期待の範囲や内容が曖昧すぎる。十中八九、来週からの復職など、今まで自身を苦しめてきた、姿の大きい不安から逃れたくての、夢遊病のようなムーブでもってサンデーを買ってしまったのだろうけど。

多分私のこれまでの性質上、本当に欲しいモノに対してはすぐ動けない。怖いから。

  • 引越し

  • 転職

  • 創作仲間

アトリエにできる家で、今よりも年収高くて辛くとも楽しい仕事。そして多彩なともだち、仲間。私が欲しいのはこれ。

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