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意地悪に敏感なのはやさしさに価値を置いているからだ

子どもの頃、親からも言葉やしつけと称した暴力で傷つけられ、学校生活の中でも私だけ仲間はずれにしようとする上級生や意地悪をしてくる同級生が常にいて、心が休まらなかったからか、私は(別け隔てなく)優しい人、思いやりのある人に人としての価値を置いている。


どんなに能力が高くても冷たい人は二流だと思っている。


世の中では意地悪でずる賢い人が甘い汁を飲んでいることが多々あるからこそ、優しさだけでは生きていけない部分もあるのかもしれないけれど、それでも私は伴侶選びも子育ても優しさが一番だと思って生きてきた。


そして夫もまた優しさがあったからこそ、気苦労も多いのが困るものの、いざと言う時はかばってくれる人がいたり、お願いごとを通してもらえたりしている。


(もちろんそれはその優しさと同時に試行錯誤しながら仕事の効率化だけでなく、改善活動やパートさんの愚痴聞きまで(汗)こなしていたからこそだと思っている)


私はこれまでどうしてこんなにも意地悪な人に嫌悪感を持ちやすく、またそういう人を引き寄せてしまうのかと悩んできたが、私の中にある優しさ、思いやりを大事にしたいという価値観から外れているから、より際立って見えてしまっていたのだろう。


困っている人に声をかけたり、手を貸したり。


自分の身体能力よりも助けたい一心でまず動ける子どもたちの健気さには感動を覚える。


もちろん危険を伴うことは大人がフォローすることだと思うのだが、それをする場面に出くわすと、子どもたちの心に優しさが芽生えていることを知れて嬉しくなる。


優しい人は目立つわけではないけれど、私はそんな控えめに徳を積んでいる子どもたちに誇りを感じている。


時々手柄を横取りしようとする子やそれを注意しようともしない親もいる中で、どうかその優しさを利用してくる人に傷つけられないことを願わずにはいられない。


意地悪な人がいるからこそ、優しい人が際立って見える。


優しい人しかいない世界にしたい、意地悪を世界から排除したいと子どもの頃から夢見ていたが、手始めに私にできることは遠回りでも自分のことに集中することなのかもしれない。


理想ばかり語ってでも何をしたらいいのかわからないまま年月が過ぎてきた。


私は子供の心に安心感を育てて、挑戦する勇気を育て、好きなことを伸ばすサポートができる親になることを目指している。


そのためにも心にささくれができたら早めに手当して、休息したり、気分転換したりして、平常心でいられるよう私の心も育てていかなくてはと思い、取り組んでいる。


そして心だけでなく体や環境を整えながら、外の世界でも活動できるよう小さな行動から始めることにした。


いつもの癖でヤル気に反してあとから不安を誘う嫌な声が聞こえてきたが、それは体験するまでわからない。


今回の挑戦はこれまでの失敗を繰り返さないためにも自分なりの線引と引き際をしっかりと決めて臨もうと思う。


自分に優しく、人にもやさしく。

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