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蜜柑山の桜奇譚(朗読版)    さやのもゆ

桜の花は身頃を迎えていた。あとは、花びらが散っていくのを惜しむばかり。
綿菓子の雲がふんわりと、空を包みこんだ日の夕方。浜名湖の西のはずれ、ゆるやかな丘の上に私は立っていた。見渡せば、北から南に、だんだん低くなっていく湖西連峰。今、新緑の淡い芽吹きと山桜のうす桃色が、まさに競演しているのだった。
こんな光景はきっと、今日だけのものだろう。だから、少しでもそばを通って帰りたい。
どことなく空の色が、少しずつ陰っていく。夜までの時間を気にかけながら、この日は通勤路ではなく、山の斜面を通る道で帰ることにした。
 はじめに、丘を北へと下っていく。東海道線の土手をくぐったところで左折して、通勤路をはなれる。細い道を上って、広い道との交差点を通り越えた。
 大きな工場の前を過ぎると、今度は下り坂になる。天浜線の踏切を越えて、入出太田川を小さな橋で渡ると、山に向かう道がまっすぐに続いていく。
 湖西連峰の登山口を左に分けたところで、道路は大きくカーブして、山の斜面を駈け上がっていく。見上げれば、やわらかな若葉をこんもりと頂いたコナラ、そして山桜の森がせまってくる。
 山の斜面にそって、クネクネ道が続いていく。道なりに東へ進むにつれて、こずえの緑が深くなってきた。峠の切り通しを山の北側に乗り越せば、そこは猪鼻湖が遠く望まれる、小高いビュー・ポイントだ!。湖水を囲むように寄せ合った町が、明かりを灯しはじめている。夜の影が澄んでいるうちにと車を急がせ、山の中腹を、谷でU字を切って上りかえす。視線をあちこちに投げると、行く手のミカン山で頂上だけが桜の森になっているところが眼に入った。
 ガードレールが囲んでいるのだから、道が通じているはずだ。迷っているヒマはないので、ちょうどその真下あたりに見当をつけて、斜めに枝分かれした道を上がっていく。百メートルほど進んだところで、T字路があらわれた。どちらも行ってみたものの、直接山頂にはつながらない。そこで私は車を駐めて歩くことにした。T字を右に取り、数十メートル先の暗い林にさしかかる辺りで、さらに枝分かれした細い道を上がってみる。突き当たりを左に曲がると、西側が開けた明るい斜面にでて、最後の上りとなる砂利道を、やっと見つけたのだった。
道沿いの桜の木は、終点まで植わっているようだ。砂利道を輪なりに上がり、平らになったところで突然、見るよりも先に足が止まってしまった。
 今いちど、目を見開いてみると、足元からつづく道筋を、桜の花びらが埋め尽くしている。
 梢を見上げれば、これほどの花びらを散らせたというのに、未だに葉桜も見られない。
 道の終わりは、桜の森がまるく囲む、ちいさな広場になっていた。
私は、花びらの散り敷いた真ん中に立ち尽くし、地に降りてきた花影が、うす桃色を深く染めていく様を、宵闇に尽きるまで見届けたいと願ったのだった。

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