さやのもゆ

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浜松の象徴 松菱百貨店⑥ さやのもゆ

 松菱のあった日々    ~浜松・遠州に生まれ育って~    そういえば、松菱の前に、あれがあったよね。  空襲を受けた中で一本だけ残ったっていうやつ。  プラタナスの木だっけ?  鍛冶町通りの、松菱からヤマハに渡る横断歩道の  真ん中にあったんだよ。  間違いない、オレの眼(まなこ)がおぼえてる。       (和地山町・Tさん 昭和十九年生)    僕は昭和十九年生まれ。和地山に住んでいたんだけど、子供のころは、母親が浜松の街に行くことを「下町へ行く」と、言ったんです。行

    • 富岡のコスモス      さやのもゆ

        八月の終わり。 初秋に咲かせるコスモスの、種まきが始まる頃だ。 私の記憶のなかで直ぐに取り出せる引き出しには、常に一枚の写真がしまってある。 ―山の端に近い西日が斜めに差し込んでおり、赤土の   地面に三脚を立て、カメラを構える父を照らしている。帽子の影に表情が隠れてはいるものの、眩しそうに空を仰ぐ横顔は陰影深くーいつもの父が、そこ にいた。  しかし、写真を撮った母は、こう言った。 「お父さんは、この時にはもう、痩せていたんだね。お母さん、ちっとも気づかなかった。」  

      • 再生

        朗読エッセイ「富岡のコスモス」/さやのもゆ

        さいきん、自作エッセイの朗読を少しずつ配信しております。お時間頂けましたら、ご視聴よろしくお願いします。さやのもゆ

        • 浜松の象徴 松菱百貨店⑤  さやのもゆ

          お客様との信頼関係・学び続ける仕事     ―外商部勤務三十年間を振り返ってー    僕は松菱百貨店で三十年間、外商部の仕事に従事して参りました。浜松市内の大手企業を始めとした、いわゆる店外のお客様をメインに担当させて頂きましたが、お客様のご信頼を得て、人としての相互の繋がりを持つことで意思の疎通を図り、それを販売計画にも反映させてきたのです。やはり、店側が一方的に決定した商品の販売を計画して、いきなりおすすめするのではなく、お客様のお求めになる物との温度差が少ないところで商

        浜松の象徴 松菱百貨店⑥ さやのもゆ

          浜松の象徴 松菱百貨店④

          -タイムカードは”ナシ”、女性優先の労働環境- 私が昭和46年(1971)に入社した時、驚いたことに松菱百貨店にはタイムカード、というものがありませんでした。出勤したら、各職場に架かっている自分の名札をひっくり返す、というものでしたが-これには理由がありました。 タイムカードが廃止になったのは1971年(昭和46年)の事ですが、それ以前は出勤時になるとタイムカードに人が密集してしまったので、始業前に出勤しても打刻できず、遅刻になってしまう社員が続出したからです。とくに女性社

          浜松の象徴 松菱百貨店④

          浜松の象徴 松菱百貨店③ さやのもゆ

          -女性が働きやすい会社-  (元松菱社員Hさん・Kさんのお話) 私は、昭和41(1966)年に松菱百貨店に入社しました。高校から就職試験を受けましたが、あの頃は女性の働く場所が少なくて、銀行かデパートかっていうところでした。 その年の採用試験は応募数が500名近くもあって、採用されたのが60名位。結構厳しい条件でした。それこそ、家庭調査とか身辺調査がありまして、身長も153センチ以上、と決められていました。あと、条件の中に容姿端麗、なんていうのも明記されていましたね。 入社

          浜松の象徴 松菱百貨店③ さやのもゆ

          浜松の象徴 松菱百貨店②     さやのもゆ

           僕自身は松菱百貨店を辞した後、同年の2002年6月1日、松菱百貨店の開店日(1937年6月1日)に合わせて街中に美術画廊を開きました。  僕は外商部に30年勤めていましたので、そういった商品をお求めになるお客様とのつながりもありましたし、取引業者さんも全面的にバックアップしてくださいました。おまけにその頃の浜松には美術画廊がありませんでしたので、丁度いいと考えまして。 狭くて深いお仕事をしたくて-確かに美術商の業界には難しいものがありましたが、たまたまライバル店が少なかった

          浜松の象徴 松菱百貨店②     さやのもゆ

          浜松の象徴 松菱百貨店  さやのもゆ

           松菱百貨店は、1937年(昭和12)6月1日に浜松の中心街(浜松市鍛冶町124番地)に開店した。実に今から(2023年)86年前、太平洋戦争(昭和16年)が勃発するより以前の事である。 ご承知のように旧浜松市民はもとより、遠州人なら知らぬ人とて無い、浜松市を象徴する老舗百貨店であったが、2001年(平成13)11月14日に突然の破産申告を以て倒産した。 戦前より戦中・戦後の激動の時代の中、壊滅的な戦災からの復興と発展を遂げ、今日の浜松を作り上げるに至った過渡期を、浜松市民と

          浜松の象徴 松菱百貨店  さやのもゆ

          天竜の山桜

          三月に 天竜川の対岸より 鳥羽山の桜が 咲きはじめたのを 眺めましたが 最初に咲いたのが 山桜の大木でした その後 ソメイヨシノ桜などが咲き 春を迎えました-       (鳥羽山桜遠望-Sさんの手紙より) 天竜川を鹿島橋で左岸に渡ると、 鳥羽山が正面から崖のように迫ってくる。 トンネルの手前で道路を斜めに右折し、天浜線の低い陸橋を潜った先で、車を駐めた。 道沿いには黒塗りの立派な門構え、庭を挟み奥まったところに、「筏問屋 田代家」は佇んでいた。 田代家にはその昔、江戸時代

          天竜の山桜

          蜜柑山の桜奇譚(朗読版)    さやのもゆ

          桜の花は身頃を迎えていた。あとは、花びらが散っていくのを惜しむばかり。 綿菓子の雲がふんわりと、空を包みこんだ日の夕方。浜名湖の西のはずれ、ゆるやかな丘の上に私は立っていた。見渡せば、北から南に、だんだん低くなっていく湖西連峰。今、新緑の淡い芽吹きと山桜のうす桃色が、まさに競演しているのだった。 こんな光景はきっと、今日だけのものだろう。だから、少しでもそばを通って帰りたい。 どことなく空の色が、少しずつ陰っていく。夜までの時間を気にかけながら、この日は通勤路ではなく、山の斜

          蜜柑山の桜奇譚(朗読版)    さやのもゆ

          奥浜名感懐-引佐峠

          五月の連休もあと数日と迫った午後。母の実家である三ヶ日の祖父母のお墓参りに出かけた。  国道365号を西進し、天浜線西気賀駅の先で右折して踏切を渡る。さらに山手に続く狭い坂道を上りきると、広域農道「オレンジロード」に合流する。引佐町奥山地区を起点に谷を遡って山腹を巻き、町境の尾根を乗っ越して上下の起伏を繰り返しながら、三ヶ日の摩可耶地区まで延々と続く道である。西気賀からの合流点より三ヶ日町境、引佐峠までは急勾配な上り坂が、ほぼ直線的に山腹を切っていく。その、尾根を大きく回り込

          奥浜名感懐-引佐峠

          ホタルブクロの雫落ちて-     さやのもゆ   

          五月。今年もまた我が家を囲む細葉の生け垣には、葉影の奥からホタルブクロの茎が細い竿をいくつも差しかけていた-蕾の重みにしなりつつ、日毎に花色を染め上げていきながら。しだいにふくらかな花の形をととのえていく姿を見るにつけ、近いうちに静かに弾けて、花びらの縁をちょっぴりつまんで咲くところを想像しては、その日を心待ちに過ごして迎えた朝であった。  色づき始めた頃の蕾は朱を筋状に差した茜色をしていたのだが、日毎水に晒して染め残るように色を重ねてゆき、花弁の芯から赤紫に昇華して釣り鐘の

          ホタルブクロの雫落ちて-     さやのもゆ   

          阿多古川上流へ

          暑い盛りの日々は、少しはなりを潜めたものの、まだまだ夏は続きそうだ。  この日は昼過ぎより、ドライブを兼ねてウォーキングに出掛けた。いなさ湖(都田川ダム)にしようか、それとも天竜区の熊(くんま)地区に行って川沿いに遡る道を歩こうかと迷っていたが、都田町は藤淵橋の袂で、後者に決めた。道順的には国道を使って天竜区回りでアクセスする方が楽なのであるが、せっかく空がくっきりと青いのだから、高所からの眺望目当てで山越えの道ー引佐町久留女木より中代峠を町境越えして天竜区懐山地区を下り、阿

          阿多古川上流へ

          坂口安吾「桜の森の満開の下」

          -四方の涯(はて)を虚空と象(かたど)るもの- 桜の美に堪能できる文学作品といえば真っ先に思い出されるのが「桜の森の満開の下」(坂口安吾)である。所属している読書会のテキストとして読んだのがきっかけであったが、読み終えて数年が経った今もなお、私の脳裡に面影を宿している。今こうして文章を書いている私の、ペンを握る手に何らかの影響を与えているのであれば幸いである。  四方の涯を桜のはなびらに塞がれた「虚無」のなかに、静謐な哀しみがあたたかく満ちてくる。その透徹した美しさに、心

          坂口安吾「桜の森の満開の下」