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浜松の象徴 松菱百貨店③ さやのもゆ

-女性が働きやすい会社-
 (元松菱社員Hさん・Kさんのお話)

私は、昭和41(1966)年に松菱百貨店に入社しました。高校から就職試験を受けましたが、あの頃は女性の働く場所が少なくて、銀行かデパートかっていうところでした。
その年の採用試験は応募数が500名近くもあって、採用されたのが60名位。結構厳しい条件でした。それこそ、家庭調査とか身辺調査がありまして、身長も153センチ以上、と決められていました。あと、条件の中に容姿端麗、なんていうのも明記されていましたね。
入社式は浜松市体育館(現在のコンコルド浜松前)でした。今はそんな事ないと思いますが、何と、親と一緒に出席したのです。それで式の後、配属されるエリアの先輩社員と食事をする、というのもありました。今思うと、あんなことあっていいの?という感じでしたよね。
松菱に就職して最初のお給料―初任給は2万7900円でした。あと、ボーナスは2・何カ月分でしたので、5万円以上いただきました。おかげ様で伊豆旅行に行けたほどです。そのころは今と比べると、年毎にどんどんベースアップしていく時代でした。また、社内貯金というのがありまして、利率が良かったものですから、みんな社内貯金をしていましたよ。
 百貨店という事で女性の多い職場(昭和41年新入社員は女性60名・男性5名)でしたから、やりたい放題?というか、女性の世界でしたね。
 とにかく、女性にとって働きやすい職場だったと思いますよ。生理休暇も必ずありましたし、福利厚生も充実していました。
私は在職中に4人の子供を出産していますが、いずれも産休を取得出来ました。育休制度の方は、私の時はまだ無くて、その後、昭和50年以降に出来たようです。健康面でも、定期的に市内の個人のお医者さんが来て下さって、よく利用していました。昔は館内の冷房が効きすぎていたものですから、体を冷やしてしまって体調をくずす事がありました。そんな時は医務室に行って休んでいたのですが、閉店まで寝ちゃったりして、ほかの社員が「終わりですよー」とか言って起こしに来てくれたんですよ。
その頃の松菱百貨店の定休日は月曜日(6年後の1972年に水曜日に変更)。半ドン(土曜の半日休み)無しの週休1日制でした。週休2日制になったのは大分後の話で、ローテーションを組んで休暇をとっていました。
松菱に限った話ではありませんが、社内旅行は必ずありましたね。職場(売り場の一階)ごとにバス8台位で連ねて行きました。個人的な旅行の時でも安く泊まれる旅館とかそういった施設もあり、恵まれた環境だったと思います。
また、社内ではクラブ活動があって、茶道とかスポーツ等いろんなのがありました。ですから、仕事が終わった後の過ごし方も充実していましたよ。
松菱百貨店は待遇も良く、あそこに居て良かったな、という印象しかないですね。
 
 -松菱社員としての仕事-

私は6階売り場(家具等日用品、陶器を販売)のレジ係でした。その頃はまだ、レジ専門係というのがありまして、5か所を回る形で業務にあたっていました。商品券は既にあったものの、まだクレジットカードも無かった時代。特に年末の暮れなんかは、お客様が日用品とか買い揃えられるでしょう?だから、その時の忙しさといったらなかったですよ。それこそ、課長始めみんな総出、立ってお仕事でしたね。
お会計は大忙しで、お客様も「これを下さい」という感じだったので、その受け答えみたいな形で、一日中包装だけをしていた、なんて事も。時代的にもお中元・お歳暮が一番盛んな頃でした。
1年のうち、最も忙しい年末は大晦日の12月31日まで働いて、明くる1月1日から出勤だったんです。お正月には、振袖を着て行きました。

 -海外研修のエピソードなど-

松菱の外商部では、お得意様をご招待して沖縄とかに買い付けに行く、といった企画や、商品をお客様のお宅にお持ちしたり、という業務がありましたが、取り扱う物―例えば宝石って、特別な商品ですよね。そういった高級品の販売目的で外商部と営業が連携して、タイとか香港などへ宝石を買い付けに行くツアーを企画し、お客様をお連れするわけです。そういうのもありましたし、私もタイに同行した事がありましたがーお客様のレベルが違うんですよ。
現地に行って、宝石が陳列されている所でのお客様がたが、とにかくすごいんです。私達なんかは「どれにしたものか」といった感じで眺めているのですが、お客様はそれこそ、飴玉でも買うみたいに「これと、これと、これを」、という風な感じだったんですよ。そういう光景を目の当たりにして、「あぁ、人ってこんなに格差があるんだな」って、しみじみ思いました。私らの知らない世界ですよね。いろんな人がいてーいいんですけど、松菱社員になって、そういうのを見る機会もありました。

40年後を見通していた、アメリカ

世の中も、百貨店需要が希薄になってきましたがー。今では低価格のお店をテナントに入れないと、客寄せが出来なくなってしまいました。お買い物に対しての考えが変わった、といいますか。
私たちの世代は、お買い物をレジャー感覚で楽しんでいたけれど、今どきの人にとっては買い物なんて楽しみじゃないんですよね。とにかく、欲しいものしか要らない。あと、お金を使うという感覚が無くて、すべてがネットで完結する社会で育ってきているから、以前のようにお買い物を百貨店で、という考え方では無くなってきています。商品も高額ですから。
それに、百貨店は街の中にありますから、駐車場もなかなか無いし。どうしたって、郊外のショッピングモールに人が流れますよね。
松菱百貨店で購入した商品、という付加価値ともいうべきもの。それが、時代の流れで無くなってしまったのです。いまは、安くて早く買えればいい、という考え方になっているのが現状です。
40年前に社員研修でアメリカに行ったのですが、その時の講義で「ネット社会が必ず来る」というお話を聴講しました。その後で現地の「ノードストローム」というデパートを視察した際に、そこでも「これからの時代は、郊外店(今でいうイオンモールのような業態の店)が全盛になっていく。だから、百貨店は要らなくなり、衰退していくだけだ」と聞かされて、「エー、本当に?」と思っていました。そうしたら今、本当にネット社会が来てー。あの時、言われた通りだったんだなと思いましたね。
お買い物でも、お客様が実店舗に出向いて、店員と対面で接した上で購入する、というのが無くなってきています。昔のお客様はお歳暮にしても、同じ商品であれ「松菱の包装でないと失礼」という考え方でしたが-。
結局、時代の流れには勝てなかった、ということですね。
                (つづく)
【第二問目の答え:②茶室】

松菱百貨店の開店当時、浜松には茶文化がありませんでした。創業者の谷政二郎氏は京都出身で茶道を嗜まれていましたので、京都から運ばせる形で松菱百貨店4階に茶室「松栄庵(しょうえいあん)」を作られました。谷社長は松菱百貨店の使命であるとして、浜松の文化振興に尽力されていたのです。

【松菱クイズ 第三問目】

松菱百貨店の創業者・谷政二郎氏が「浜松にもたらしたもの」は3つあるとされていますが-ここで問題です。
次の4つのうち、谷社長と全く関係ないのはどれでしょう?

   ① ライオンズクラブ
   ② 京都裏千家の茶道
   ③ 百貨店
   ④ 映画ロケ誘致

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