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思考の遊歩,どうしようもないこと

 結局出すべき成果物を出せないまままたこうしてどうしようもないことをただただ書きつけるのです。書いている本人が「どうしようもないこと」といっているものを読んでもらおうとしているのはどうかと思いますが,これは私にとっては重大事でもこれも読むことになる人たちにとっては「どうしようもないこと」と受け取られるであろうという客観的な事実からそういっているのであります。

 問:どうしてそのようなものを書き,あまつさえ公開しようとするのか?

 それはこうやって思考の過程をただただ書き連ねたものがどうなるのかを読んでみたいと他ならぬ私がそう思ったからです。確かに探せばそういった文章はあるのかもしれませんが,それは他人の思考であってどうしても違和感が出るのは当然でそれならば自分で書いてしまえばいいだろうと思い至ったのです。

 問:それを公開する意味とは?

 いちいち自分の書くことに意味を与えるという行為は崇高な心掛けのように思えますが一方でそればかりを求めるとテンプレートな当たり障りのないものしか出来上がらないのは想像に難くないでしょう。広く公にさらすのはまだしもこんなネットの隅っこにそっと置いておくものにまで意味を与えるなければならないような窮屈なことはしたくないのです。

 一方でこれをどこかの知らない誰かが読んでくれて,多少なりともその人の人生に入り込めたのであればそれは幸せなことだと思います。数年前では考えられなかったことが今となっては気軽にできてしまいます。それは窮屈な思いをすることが多くなった今現在のなかでは比較的プラスのことなのかもしれません。

 問:そんなに今現在窮屈を感じているのか?

 イエス。様々な生き方が肯定されるのと同時に,それを肯定しない者を悪と断定する場面が増えました。また,それに類するような言葉や表現を許さないとう流れもできてしまっています。これを窮屈といわず何と表現すればいいのでしょう。

 言葉や表現の制限はやがて思考の制限につながります。言葉があって初めてその「もの」というのは世界に存在を認められるのです。言葉がなくても一人で物思いにふけることは可能ですが,殊に思考の伝達を考えると言葉なくしては成り立ちません。こうなると思考しないただのゾンビめいた生き物が増殖していきます。

 また,表現の規制ほど無意味なことはありません。その「もの」を表現したいというニーズがある限りそこに新しい表現が生まれるのは至極当然のことなのであります。その昔では婉曲表現だったものがだんだん浸透し,今となっては直接的な表現になっているものは少なくありません。そんな流動的なものに対していちいち目くじらを立てる行為は台所のシンクが濡れているといちいち拭き取る行為と等しいほどに無意味でしょう。

 問:そういえばさっき言っていた「多少なりともその人の人生に入り込め」るって?

 表現の持つパワーというのをもし数字にしようとし場合,「どれだけの時間をその人の人生から奪ったか」が一つの尺度になると思うのです。音楽でいうと,その曲を何回聴いたか,何回口ずさんだか,何回その曲の光景を頭に浮かべたか,その時間がその人にとってのその曲の価値といえるでしょう。

 ここまで読んでくれた方がいるとなるとその方の人生をほんの数分奪っている,しかも普通に生活していれば関わることがなかったような人の時間を。そう考えると大したことはしていないのに何か壮大なことをした気分になります。そのちょっとした充足感で私は満足できてしまうのです。

 問:このとっ散らかった文章はいつまで続くのか?

 最初は1時間で区切ってその時思いついたことをひたすら芋づる式に書いて思考をトレースするような文章にしていくつもりでした。やはり書くことで思考も影響を受けて思考をそのままトレースすることはできません。ちょっと考えればわかりそうなことですが。

 ここまで書いてきて私のやってみたかったことは「自分の思考をトレースした文章を読むこと」だということに気づきました。これだけである意味この文章を書いた意味があったのかもしれません。そしてそれを実現するためにはこのやり方では難しそうだということも分かったので大収穫なのでこの辺で切り上げるとしましょう。

 以上,お納めください。

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