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人の記憶の曖昧さと創作物の共犯関係

 4, 5歳のころの記憶というのは,所々あるもののそれが本当に自分のものなのかと思うことがある。光景は目に浮かぶのだが,自分の見聞きしたことなのか,それとも家族や友達から聞いたものなのか……時々分からなくなる。そんなことになるのは何も物心つく前後の話だけでもなく,学生時代や本の数か月前のことでもたまにある。

 ともあれ,人の記憶というものはとかく曖昧で,簡単に上書きされる。だいたいは親しい人から。さながら外付けハードディスクだ。そして上書きされる度に記憶は鮮明になるが――どこか本当にあったことから乖離するような感覚になる。それどころか「存在しないはずの記憶」すら生成する。デジャヴなんて言葉が共通認識になるぐらいなんだもの。

 それほど不定形なものだから,どんどん自分の記憶ではないものでコーティングされていく。そうやって重ね塗りを繰り返していくうちに,とうとう元の色と似ても似つかない色になっている,なんてこともあるんだろう。確かめることはできないけど。なんなら,仮にその重ね塗りの層を一枚ずつ剥がすことができたとして。その記憶のコーティングを剥いだら何もなかった,なんてこともままある。

 人類が大昔から文字や絵,技術が進んで写真や映像で出来事を残そうとしてきたのは,こういった人の記憶の曖昧さというかいい加減さをどうにかしようとしてきたからでしょう。

 ただ,そういう記憶媒体も完全じゃないというか。例えば「写真を見てその出来事を思い出す」場合,その記憶はどうしても断片的になってしまう。写真があるから確実にその出来事は「あった」のだが,そこに紐づいた記憶がない,その写真に至るまでどういう流れだったのか,といった前後関係がなくただ「ある」ような状態になる。現実味がないのだ。

 こうした「未体験なのに現実味を帯びている」というデジャブと反対のこともそれなりの頻度で起こる。デジャブの対義語は「ジャメヴ」というらしい。フランス語で「見たことがある」と「見たことがない」の意味だとか。

 語源はさておき,記憶にまつわる真逆の現象,身に覚えがある人も多いと思いますが,不思議なものです。この現象は,映像とか音声――というよりももっと広く質量を持ったリアルなもの――は記憶と究極的にはつながっていないことを示唆していると思います。では,人は一体「何を」記憶しているのか。

 思うに,記憶というものはその映像や音声そのものを覚えているのではなくて,その時の心の動きを保存しているんじゃないか。情報量を圧縮すると最終的には心の動き,「どう感じたか」なるんじゃないかなと。人間とって細かいディティールは覚えていられないし,重要じゃないという進化なんでしょうね。

 ふっと記憶の引出しが開いたり,音楽を聴いて何かを思い出したりするのは,何かきっかけで同じ心の動きをしているからなんでしょうね。物語や曲が広く共感を集めるのもそういうことなんだなと。わたしはそれの一つの到達点がフジファブリックの「若者のすべて」だと思ってます。

 それで,なんでこんなことを長々と書いているかというと,さよならポニーテール(と,いうよりはクロネコ)の「奇妙なペンフレンド3」が届いたからです。「奇妙なペンフレンド」は主にクロネコがさよならポニーテールについて色々な断面から,メタ的なことを含めてまとめた本でこれまで3冊出ています。その本の1冊目の冒頭にこうあったのです。

わたしはわたしが可能な限りの表現を使って,
あの出来事について記そうと思っています。
正確に伝える自信はありませんが,今のわたしにとっては
「正確である」ということは,何の意味も持ちません。
大切なのは,わたしにはどう見えたのかということであり
それをあなたが信じるかどうかなのですから。

奇妙なペンフレンド

 自分がやってみたいこととして,「ものすごく個人的な出来事とその時の感情を全く別の表現をつかって伝える」というのがあるんですが,それはこの冒頭の文に影響を受けています。このシリーズは全編通して「創作する」ということをかなりメタ的に語っているので,どうしてもそうなります。

 「同じ感情を持ってもらうためには,正確な描写は大きな意味をなさない。そして全く異なる手段でも,同じ心の動きを与えることが可能である」この人の記憶のバグのようなものをハックして,世の創作物はできているんでしょう。それゆえ,私もそれをハックしてみたいと思うわけです。いくらかは供養のために。

 ということで千鳥足でしたが,記憶にまつわるよしなしごとと部分的な「奇妙なペンフレンド」のお返事でした。
 以上,お納めください。

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