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パパゲーノ


ももさんと7人のパパゲーノというドラマを見た。

ああわかるな、と思った。それに尽きる。

でも死にたいと言ったときにあんなふうに駆けつけてくれる人はいなかったな。あまりにもわたしが死にたいって言いすぎて、誰も本気にしなかったし、きっとまわりだって死ぬとは思ってなかったんだと思う。

緩やかに自殺を試みて毎日毎日腕を切って血を流していた。つらいことから目を背けるために自分を傷つけた。死にたい気持ちはずっとあって、どう頑張ったって消えなかったし、今だって昔よりは減ったけど完全にはなくなってない。

わたしの死にたいな〜と思うことって、お腹減ったな〜と同じくらいのテンションやノリ。それを口にするとよくわかんない空気になるから言わないけど。

否定はされたくない、でも肯定もされたくない。
どっちでもないのだ、どっちでも悲しくなってしまうから。だから言わない。でも死にたい。そんな感じ。早く言ってくれたら、とか、相談してくれたら、とか、なんか違うと思うから言えないだけ。

なんだかわたしの人生、大転換期らしくて、2人の彼とお別れしたこともあって、さまざまなことを思う。

そんな中でドラマを見て、わたしはひょっとしたら生きたくてたまらないのかもしれない、と気付きはじめた。でも死にたいのだ。この死にたいがあるからこそ生きているのかもしれないとすら思う。

わたしだってこの感覚は正直よくわからない。
だけど、本当はわたし、一生懸命生きたいのかもしれない。だからこそ、自分を傷つけてきたのかもしれない。どうにか自分のことを救ってほしくて死にたいって言ってきたのかもしれない。自分じゃ救えないから死にたいって言うことで周りが救ってくれるかもしれないと思っていたのかもしれない。(結果的にそれはみんな死にたいを適当に流す原因になっていたけど)

そう思うと、死にたいを否定しなくてもいいのかもしれないと思った。これでいい、このままでいい。死にたいとめちゃくちゃ生きたいとの曖昧なところをこれからも生きていくのだと思う。

それでも死なない選択をとらずにここまで生きてきた自分は本当にすごいと思う。きれいな腕もたくさんの信用もなくなったけど、全部生きるためだったとしたら、本当によく頑張ってきたと思う。

ももさんとゆうたが最後に駅でする会話が何気なくて、当たり前のようででもすごく大事で。
おんなじ人がいるってだけで安心するよね、ってメッセージがあると思う。

どんな気持ちでも自分だけのものだから、どうか、否定しなくても生きていけますように。わたしだってえらい人間じゃないけど、おんなじような人に届いて、誰の安心になれたら嬉しいな。

わたしの文章で何かできそうなことがあれば、全力で力になりたいと思っています。