5年

2011年3月11日。世界でも類を見ない大地震が発生したあの日、僕は自宅のソファーに横になって、なんのあてもなく、ただボーッと電源の付いてないテレビを眺めていた。うつ病がいよいよ重症化し、働くこともままならず、仕事を休んでいたのだ。

身体がやたらと重く、頭は働かず、こんな状態になっている自分を延々と責め続けながら横たわっていた。

そして、14時46分。突然の揺れ。

東京に住んでから感じたことのない大きな揺れ。本棚からは本がバラバラと落ち、外を見れば青信号にも関わらず停車している車車車、立ち往生する歩行者、激しく揺れる電柱、水が道路まで溢れかえる堀。

いよいよ、予想されていた大地震が東京に発生してしまったのか、そう思っていた。

同棲していた彼女の安否を確認するにも、電話がつながらない。まずは落ち着こう、万が一に備えて寝間着から普段着に着替えておくんだ。見るからに緩慢な動きで、一日時間を共にしたソファーから離れ、活動を開始した。

そうこうしているウチに、大きな揺れはおさまり、今回は大地震ではなかったのだろうと、そろそろとソファーに舞い戻り、NHKで地震の詳細を確認しようとテレビをつけたとき、戦慄が走った。

あれ、変だな。見覚えのある風景が速報映像で流れている。

そう、大地震は地元宮城県をはじめとする三陸沖で発生していたのだ。

何度も何度も訪れ、耳にタコが残るくらい聞き慣れた数々の地名をアナウンサーが連呼している。最大震度が、津波が、マグニチュードがと。これは、上手くできた映画かなにかなのだろうか。全く実感が無い。

今まで見たことの無い大きな津波が、気仙沼、名取、石巻、南三陸町といった懐かしい土地を侵食していく。ああ、なんてことだ、僕の育った場所が、どんどん流されていく。

しばらく、ただ呆然とテレビから流れる映像を眺めていた。マズイマズイ、家族、友人は生きているのか確認をしなければ。しかし、相変わらず心身の動きは緩慢さを振り払えず、スマホから数件のメールを送った。それだけが、その時の僕に出来る最大限の行動だったのだ。

それから2時間ほど経過した頃、急に玄関の扉が開いた。何事か、と思って見てみると彼女が立っていた。銀座から歩いて帰ってきたのだ。

良かった、無事で。

玄関で彼女を抱きしめた。

その日は、互いの家族や友人からの連絡は一切なく、無事であることを祈って眠りについた。

それから3日後、家族から、友人から、無事だとメールが届いた。あの瞬間の安堵感は、言葉では表現できない。本当に幸運だったと思う。

しかし、東北沿岸部の状況は刻々と悪化する一方だった。福島第一原発のメルトダウン、建屋崩壊、この世の終焉だとも思える映像が延々と流される毎日。無機質に増え続ける画面上の行方不明数、死亡者数。自分はなにも出来ないのか、どうにもならないのか。憤り、怒り、悔しさ、嘆き、絶望、無力。

僕は、何をすることも出来ず、いつもの様にソファーに横たわりながら、自分の無力さやどうにもならない抑うつ感に苛まれながら、いつが朝なのか夜なのかもわからない生活を続けていた。自分も何かしたい、助けられる人がいるはずだ、立ち上がれ自分!幾たび心のなかで連呼されたかわからない。でも、僕には無理だった。もう、気力は残されていなかったのだ。

あれから5年。毎年、この時期になるとテレビから復興の状況や、当時の津波の映像が流れてくるが、年々、津波の映像を見た瞬間に怖くなり、目をそらすようになってきている自分がいる。前はそんなことは無かったのに。

現場にはいなかったけれど、絶望的で圧倒的なあの津波が怖くてたまらない。

僕の場合、震災の時の衝撃がうつ病が回復してくるにつれて、明瞭化してきているように感じるのだ。あの時なにも出来なかった悔しさや無力感、様々な感情が湧き上がってくる。

しかし、それで良いのだ。僕は僕のタイミングで震災と向き合っていければ。この恐怖感や無力感と付合っていければ良いのだ。

僕にとっての5年間は、うつ病と向き合った時間。もうそろそろ、震災と向き合うことが出来るんじゃないかと、ちょっと期待している。

また5年後、良き変化を起こせているように、健やかに暮らせていますように、僕も何かできることからやっていきたい。そう思った、2016年3月11日の今日という日。

黙祷。

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