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アル中患者が14日で聖書を通読して思ったこと

アルコール依存症のななにいにです。いつも読んでいただいてありがとうございます。今回は聖書を読んでみた私の感想を述べたいと思います。

私は4日前に聖書を2週間で通読しました。線を引きながら読んだので割と精読したつもりです。いまは2周目に入って牧師さんのユーチューブを見なが士師記まで読んでます。
私はキリスト教信者でもないですし、何とか学院みたいなキリスト教系の学校に通ったこともなければ、教会に入ったのは結婚式くらいのものです。ただ、結婚式の賛美歌だけはいつも全力で腹から声を出して歌っていました(挙式前にすでに酒飲んでべろべろだったからですが)。
そんなアル中患者の私が聖書を「一読書愛好家として」読んでみた感想を書いてみたいと思います。

聖書はイエスが生まれる前のことについて書かれた旧約聖書とイエスが生まれる前のことが書かれた新約聖書があります。
旧約聖書はとりあえず神がブチギレます(笑)そして、言うことを聞かない人類のことを神が殺しまくります。人はそのたびに懲りるのですが、思い通りにいかないことがあるとすぐに勝手な行動をとって神がブチギレる。これをひたすら繰り返します。生きるためのルールである律法を神が人間に示すのですが、それを守ることができないんです。
まるで小学校低学年の悪ガキたちを担任の先生が怒号を飛ばしながら言うことを聞かせるような感じ。でも、何回子供たちが同じことを繰り返しても決して見捨てることのないそんな愛について書かれているわけです。

新約聖書は、イエスという旧約聖書に出てくる凄い人(ダビデ)の血を引く人格者のお話です。彼は人類の救世主(メシア)として神が人間の姿になって愛を説き、彼は人間的に完成されすぎています。しかしなんとなく弱弱しいのでユダヤ教では救世主とは認められていない可哀そうな人(神)です。
イエスは弟子の裏切りによって磔になって死にます。ただ、イエスが死ぬことで人類すべての罪を彼が背負ったということになるようです。
旧約聖書では全面的に神への従順さが説かれていたのに対して、新約聖書には自己犠牲による献身的な愛を説かれています。少し重いです。この胃もたれ感がイスラム教やユダヤ教のようにアンチキリストが生まれる所以なのでしょう。

現代は、基本的に物が不足していた2000年以上前と比べて飽食の時代です。現代の日本でスラムのような生活をしていたとしても、聖書が書かれた時代の人たちの感覚からすれば素晴らしすぎる生活になるんだと思います。
逆に、これは聖書が書かれた後にカトリックの方が考えた「七つの大罪」が発生しやすくなっているのではないのでしょうか。

重い順に嫉妬、傲慢、怠惰、憤怒、強欲、色欲、暴食があげられます。

SNSやメディアが何となく輝かしい人の生活を取り上げ、どこに行っても安く飲み食いはできます。世の中が複雑化してストレスは溜まって心の健康が損なわれることが多くなります。
心のバランスが崩れると、道徳的な行動をとることができず、結果的にそれがトラブルを引き起こして、それがまた心を病むことにつながります。

私たちに救いはないのでしょうか。多分そんなことはないと思います。
イエスの言葉に「求めよ、されば与えられん」という有名な言葉がありますね。これは物乞いをしろということでも、祈ってるだけということではありません。聖書の中で神は、たとえその罪人が罪を犯しても(神の意志で殺されなければ)、心を入れ替えて信仰心をもって正しい行動につとめれば、救ってくれます。
旧約聖書のサムエル記下巻で、部下の奥さんが水浴びしている姿に惚れて、その女性に子供を作って、部下が邪魔だから戦争の前線に送り込んで実質私欲で殺害した畜生ダビデも、神の罰は食らいますが、その後は悔い改めて正しい行動を行った結果なんとか良い老後を迎えたわけです。
大事なのは自分の欠点を認めて、悔い改めて、正しい行動をとるということです。

道徳的行動が大切です。そこで教えのようなものが必要であれば宗教に入信してもいいと思いますし、会社の社訓みたいなやつに従順に生活してもいいいと思います。「信仰」というと、何となく宗教団体からの回し者かと思われるのが嫌なんですが、自分を越えた大きな力を信じて行動することしか現代で心を豊かに生きることはできないんじゃないかなとも思います。

あまりにも世の中が複雑になりすぎ、ノイズも多く、情報も多く、何を信じればいいのかわからない状況です。明確な物差しが必要ではないでしょうか。聖書は2000年以上も前に書かれた本ですのですが、読んでいると人間の本質というものは変わっていないことがわかります。
基本的に人間というものは尊く、そして愚かです。必ず二面性を持っています。だからこそ、完全な善の塊であるイエスは神と言われるのでしょう。黒い面が一点もないのはロボットか神以外ありえません(旧約聖書のヨブ記は個人的にはヨブがかわいそうすぎて著者の意図を完全に理解できていないのか神の欠点だと思ってますが)。

大学時代、一回七つの習慣にハマり、精読して実践しようとしたことがありました。でも、何となく続かないし、これはやらなくていいやと自己意志で取捨選択をしていた気がします。つまり、そのプログラムの意図を理解していなかったんですね。
その10年後のなれの果てがアル中患者の私というわけです。

私はアル中で入院して、自我がそれなりに崩壊しました。それは人生の底打ちと言えるでしょう。大企業に勤め、それなりの給料をもらって、奥さんも子供もいる、そしてまだ若さもある。今思えば割と満月のような人生だったはずなのに、私の心は満ちていなかったわけです。結果的に酒を頼ってアル中になるわけです。
これまでの生き方では次間違いなく死ぬと思ったわけです。それでいろいろ勉強している中で聖書の考え方にたどり着いたわけです。それに聖書の考え方は信仰するに十分値すると思います。
とはいっても、クリスチャンになるわけではないです。「その教えを人生の指針としてお借りする」という考え方です。借りものなのでもっと自分に合ってるような考え方があったら乗り換えていいと思います。少なくとも新約聖書の現代的な考え方ではほかの宗教に関してもある程度寛容なはずです(旧約聖書だと神に「かたくなな(反抗的な)民だ」と言われて、住んでる町ごと滅ぼされますが)。

気楽に自分の指針を見つけられることをお勧めします。私は聖書を読むのが大変だったけど、かなりコスパのいい勉強だったと思っています。
聖書とギリシャ神話を理解すると西洋文学や西洋美術もわかるようになるのでかなりお勧めです。

ご相談、ご質問はななにいにtwitterまでお願いします。




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