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孤独な連帯 - シモーヌ•ヴェイユ さんの生き様•死に様



シモーヌ•ヴェイユ さんの友情論の読書会。初め読んだ時は、「何でこの人は孤独や隔たりを強く意識してるのか」「隔たりなんか飛び越えて対話して成長して友情を深めればいいのに」と勝手に思ったのですが、彼女の生き様•死に様を調べたら、衝撃に言葉を失った。

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初に「友情を哲学する」のヴェイユさんの章を読んだ時は、その孤独の深さにこっちまで落ち込むような感じになった。流石にやばいレベルだと思ってしまった。しかし、それにはちゃんとした深ーいわけがあったのだ。




ヴェイユさんの哲学の中で強調されている概念の1つは「重力」。すなわち想像上の均衡状態。しかし現実の人間関係において、相手から見返りがなく均衡が取れないことも。「だったら対話して、お互いに納得いく第3案を見つければいいじゃん」と思ったが、それができない彼女の生き様に納得の背景があった




ヴェイユさんのいう「重力」から抜け出すためには、もっとメタな視点から自分の状況を見る必要がありそうだ。今の時代状況からメタに見れば双方向の対話や合意形成や成長が出てくるが、ヴェイユさんの時代状況でメタに見れば、一方向の友情にならざるを得なかったということが見えてくる。




ヴェイユさんの描く現実は、見返りを求めても、思い通りにならず不完全になることが多いようだ。だから、そこにマイナスの感情が生まれる。しかし、不完全に見えても、分かりづらいだけで、よく目をこらしたり、他者と対話をすれば気が付かなかった恩恵を沢山もらっていたと見えてくるのではと思った。




そして、初めは気が付かなくても、振り返ってみれば、超越的なものから恩寵も与えられていたとわかることもあるのではないかと感じた。ヴェイユさんが今の時代に生きていれば賛同してくれたかもしれないが、当時の時代状況は現実の中に恩寵を発見する余裕もない程過酷ではなかったかと思った。




主語を「人間」から「宇宙」に移して、なぜ分かりやすい形で恩恵や恩寵を人間に与えないのかと問うてみた。すると、宇宙は大胆にストレートに渡すことのできないシャイな形で人間に謝意を表しているのではないかという仮説が生まれた。





ヴェイユ さんは34歳の若さで死去。それだけでも衝撃的だが、死因は肺結核と栄養失調だったと言う! 彼女は過酷な非人間的な状況に置かれていた労働者と連帯するために自らも過酷な飢餓状態に陥れたのだ! 絶望的な状況であっても彼女の中で支えになったのは信仰していた神の存在なのかもしれない。




ヴェイユは、二つの世界大戦によって分断されていた労働者階級の苦しみと繋がり、彼ら彼女らと共闘していたのだ。そのエネルギーは実際に彼女をして自ら過酷な工場や戦場にすら送ることになった。そんな彼女の思想は当時だけでなく、今日、そして未来において苦しみの中にある人たちに光を投げかける。




ヴェイユさんは、一方でキリスト教に深く帰依し、もう一方で労働運動にも積極的に関わった。天の神への信仰と地上での社会運動である。彼女の中では苦しんでいる人たちの解放という点では矛盾なく統一しており、宗教やイデオロギーを超えた深い愛と人間観があるように感じる。




苦しみの中にいる人々の解放からブレないヴェイユさんは、物理的に自分と労働者たちとの間に隔たりがあっても、「一方的」に愛を送り続けた。自分の身体を衰弱させる栄養失調という結果になろうとも共に闘ったその姿を、当時の時代状況の中で誰が批判できるだろうか。彼女の純粋な姿に涙が出る。




最後までお読みいただきありがとうございました。

野中恒宏

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