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子どもを叱ることに快感を覚えていませんか?

はじめに

あなたは人を罰することが快感ですか。

こんなこと言うと、「なんてこというの」と言う反応が返ってきそうですが、実はこれは意識するとしないとにかかわらず、事実のようです。

今回は「〈叱る依存〉が止まらない」の学習会で私が学んだことをシェアいたします。

日常的に見られる〈叱る依存〉


別に、裁判官じゃなくても、私たちの多くは、他者に対する罰を様々な形で与えているようです。それは教師が生徒に向ける罰であったり、親が子供に向ける罰であったり、上司が部下に向ける罰であったりするわけです。

これらは日常的に見かける光景ですが、実は脳の中で報酬型回路が働いて、ドーパミンなどの快楽ホルモンが出るようなのです。

「私はそんな変態じゃないよ」と言う言葉が聞こえてきそうですが、実際に、心理学的に行っても、相手を叱りつけて、即座に相手の行動を変えると言う事は、自己効力感を確認できる具体的な行為であり、その意味においても快楽をもたらしている事は否定できないようなのです。

なぜ「叱る」はエスカレートするのか?


しかし、それはあくまでも一時的なことであり、人間はそういったことにどんどん慣れてくるので、ちょっとやそっと叱ってもなかなか相手が変わらなくなってきます。そこで、叱る行為が依存症的にどんどん深刻化し、最悪の場合は暴力になったりもするようです。これが「叱る依存」と呼ばれている現象です。詳細は、「〈叱る依存〉が止まらない」(村中直人著)をお読みください。

なぜそもそも「叱る行為」が生まれるのか?

それでは、なぜこうした叱ると言う行為がそもそも生まれてくるのでしょうか。それは、日常生活の中で様々な受け入れがたい現実や困難が要因になっていると言われています。

先ほど述べたように、相手を叱って罰する行為は、一時的にではあれ快楽をもたらすので、それが、現実の困難を一時的に緩和させる働きがあるようなのです。

日本のユニークな「叱る事情」


こういった事は、オーストラリアも共通していると思うのですが、私は何か日本のしかる依存の状況がちょっとユニークだと思うのです。

第一に、環境的なユニークさです。オーストラリアには教師が生徒を呼び出して長い時間お説教すると言う習慣がなく、教師が午後3時になると学校から家に帰ると言うことも珍しくないのです。日本の先生だったら、授業が終わった後も、部活で長い間生徒と接しなければいけなかったりするわけです。つまり、日本はオーストラリアに比べて教師も叱る依存を生み出し増幅させる環境があるのではないかと感じているのです。

やられたらやり返す?!


第二に、仇討ちや仕返しの文化です。ちょっとした時代劇を見ればわかりますが、日本の文化は、特に江戸時代などの封建時代を見ると、仇討ちや仕返しがいたるところで見られたことがわかります。こうした文化的DNAは、いまだに私たちの中にあるのかもしれないなぁなんて思ったりするわけです。

もちろん、極端な場合を除いて、家庭や学校の中において、大人が子供から物理的に攻撃されて、それに対して仕返しをするなんて事は起こり得ないと思いますが、大人の受け止め方として、子どもが大人の期待に応えてくれない時などに、何か裏切られたかのような、攻撃されたかのような感覚を抱くことって結構少なくないのではないかと思うのです(私がそうでした:苦笑)。特に、教師が主導権を持っていると思っている大人にとっては、子供が教師の思惑通りに動かない時などは、自尊心や自己効力感が傷つけられ、それを攻撃と受け取って相手を罰したくなるような気持ちになってくることも珍しくないのではないでしょうか。

少し前にテレビで大人気だった「半沢直樹」において、「やられたらやり返す!倍返しだ!」と言う流行になったセリフがありましたが、これほど極端ではないにしろ、仕返しの文化は日本に何らかの形で根付いているように感じるのです。

手順が細かすぎて無理!


第三に、詳細な手順の問題があります。これは、「叱る依存が止まらない」の著者である村中さんがおっしゃっていたのですが、日本の学校教育において、例えば算数の問題の解き方など、非常にこと細かく決められていることが多く、子供が1そこから外れた場合に、叱りを誘発する可能性が高いと言うことが指摘されました。

一人ひとりの、理解の仕方や、問題の解き方や、胸の開き方などのダイバーシティーを無視して、一律にある一定のやり方を子供に強いることが、日本の学校では珍しくなく、それ故、処罰を誘発する出来事が多くなってしまうのではないかということでした。

今後は、こうした日本的な特徴を十分に考慮に入れながら、学校の中からいかに叱る依存を減らしていくかが大きな課題になっていくと思われます。

おわりに

「叱る依存」は、教師と生徒の間だけでなく、生徒間の間にも問題や対立を生み出すものであり、自由を相互に承認する民主主義社会の大前提に悪影響を与えかねないものです。

学習会でも指摘されたのですが、叱る依存の教師や叱る依存の親だけの責任にしてしまうのは、問題の解決にはならず、いかに、サポート体制を作り出すか(例えば教師1人に荷重な責任がいかないような体制を作る)、いかに学びの多様性を保障するか、いかに普段からフラットな対話ができるか、教師の自己効力感を叱る以外の方法でいかに満たすかの検討などが必要になってくるのではないかと言うことも学習会では指摘されました。

あなたはどのように考えますか?

オーストラリアより愛と感謝を込めて。
野中恒宏

【参考文献】
村中直人「〈叱る依存〉が止まらない」(紀伊國屋書店)

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