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第一章 「二大まつり」で育つ~1970年代前半~(1)

映画好きDNAの源

やはり、最初はこの三人の話から始めなければならないだろう。いろいろな意味で、現在の私を作り上げた三人である。いきなり個人的な上にかなり特殊な話が続くが、私の映画人生に大きな影響を与えた人々の話なので、ここでまとめて書いておいた方がいいと判断した次第。


父は昭和4(1929)年2月14日生まれ。『お熱いのがお好き』(1959)や『マシンガン・シティ』(1967)でも描かれた、大物ギャングのアル・カポネが裏で糸を引いていたと言われる、あの「聖バレンタインデーの虐殺」がシカゴで起きた、まさにその日である。ちなみに、私がハリウッドの映画音楽の作曲家の中で最も好きなジェリー・ゴールドスミスが生まれたのが、父の4日前の同年2月10日。映画との様々な縁が、すでに出来ている。

旧制中学の時代の済々黌の出身。遥か年上には牛原虚彦、遥か年下には後藤大輔や特撮の佛田洋など映画監督の同窓生が何人かいるが、一番年が近い芸能人は「ヒッジョーにキビシーッ」でおなじみの俳優・財津一郎。5歳下の後輩なので、直接の面識はなかったようだ。野球部に所属し、本人曰く「七色の魔球を投げるピッチャーとして活躍した」。根っからの体育会系で、見るテレビ番組ももちろんスポーツ中継が中心。これが、「テレビは一家に一台」と「チャンネルの主導権は父親」がほとんどだった昭和の家庭ではかなり迷惑なことで、現在に至るまで私が野球だけでなくスポーツを観るのもやるのも大嫌いになった原因だろう。熊本薬学専門学校(現在の熊本大学薬学部)を卒業して薬剤師になった。

後年の趣味も狩猟(主に雉)や鮎釣りと、完全なアウトドア派。…なのだが、ちょうど20代の頃に映画の黄金時代が来たせいか、映画は頻繁に観ていたようだ。とは言え、“軍都”だった熊本市と軍人を数多く輩出した済々黌の(当時の)校風のせいか、時代劇や西部劇などの男性活劇が中心だったようだ。


母は昭和6(1931)年1月6日生まれ。何と八千草薫や、ジョン・ウェインの『アラスカ魂』(1960)のヒロインを務めたキャプシーヌという美女二人と同年同日生まれ。父親が日本製鐵八幡製鐵所の参事か何かだったということで、現在の北九州市の八幡で育ったが、戦争の激化に伴い両親の実家がある熊本県水俣市へ。戦後、いくつか仕事を経験したが、そのうちの一つでよく熊本市内に出張することがあり、そのたびに仕事が終わると従兄妹の小堀富夫(熊本放送の元社長)と一緒に映画を観に行ったという。

その後、勤めていた公立病院の薬局で父と出会い職場結婚するが、父が「上司とソリが合わない」という理由で病院を辞め(こういうところも私に遺伝している)、薬局を開業。ちょうど昭和30年代で日本映画の黄金時代。二人は店の営業が終わるとよく映画を観に行っていたらしい。もう、この時点で子供が映画好きになる基礎は出来ていたと言えるだろう。

母が私に「若い頃に観てすごく気に入って、もう一度観たい」と何度も話してきた映画が2本。一つは戦時中に製作された和製オペレッタ映画『歌ふ狸御殿』(1942)。そしてもう一本がエルンスト・ルビッチの代表作にしてソフィスティケイテッド・コメディの名作『青髭八人目の妻』(1938)。どう計算しても戦後にリバイバルで観たのだろうが、本人曰く、「観に行く直前にムカデに刺されて痛くて仕方がなかったけど、どうしても観たくて観に行ったら、あまりの面白さに痛みを忘れてしまい、映画が終わった途端に痛みがぶり返した」ほど良かったらしい。そんな話を私が中学生ぐらいの頃からしょっちゅうされたものの、当時は観る術がなく、「へえ」ぐらいの感じで話を聞いていたのだが、後年、私がビリー・ワイルダーの大ファンになってから、彼がルビッチの弟子筋であり、『青髭八人目の妻』の脚本も共同で書いていたという事実を知り、驚いた。これもまさに“遺伝”じゃないのか?


伯母は大正12(1923)年3月21日生まれ。セクシー&バイオレンス映画の巨匠、ラス・メイヤーの1年後(笑)。どこかは忘れたが「そこそこ良い学校」に通い、フランス映画を中心に戦前の洋画を多数観て育った。伯母は私が物心ついた時から我が家に同居していたのだが、一度結婚していたことがあるという以外は、過去の話をあまり聞いたことがない。別に秘密ではなさそうなのだが、面倒くさいので根掘り葉掘り訊いたことはない。ただ、映画の話はいろいろとかなり聞かされた。

その中でも、昔からこれまた何度も話してきた映画関係の自慢話が2つ。

一つめ。もちろん伯母も母と同じく八幡で暮らしていた時期があった。家は製鐵所の社宅。当時、八幡製鐵所で『熱風』(1943)という映画のロケ撮影があった。原作は、同製鐵所で働きながら、『無法松の一生』の原作となった『富島松五郎伝』などを著した岩下俊作。いわゆる「国策映画」である。撮影は社宅でも行なわれ、その時に伯母は出演者の一人である原節子を見た、というわけだ。自分の家の近所に原節子が来たら、そりゃ大興奮するだろう。

二つめ。伯母は昭和20年代後半の一時期、兵庫県芦屋市の親戚のところに身を寄せていたらしいのだが、その時に親戚の家の子供を連れて、大阪のOS劇場で上映していた『これがシネラマだ』(1952)を観に行ったというのだ。3台のカメラを連動させて撮影した超横長の映像を、3台の映写機を連動させて上映した“本物の”シネラマ映画。その1作目である。当時の日本では大都市の数ヶ所の映画館にしか上映設備がなかったため、それ以外の地域に住んでいて観た人は、それほど多くなかっただろう。しかも、後に1台の映写機で上映できる方式に改良された上、最終的にシネラマ自体が衰退したため、3台の映写機で上映できる映画館は、現在は世界でも1~2ヶ所しかないようだ。そういう意味では、伯母は確かに貴重な経験をしている。

それと、これは自慢話ではない(つもりだ)が、母方にとんでもない親戚が二人もいることも、子供の頃から母と伯母に何度も聞かされた。その二人とも映画に関係があるので、書かないわけにはいかないだろう(しつこいようだが、自慢話ではない)。

俳優座の重鎮女優で、伊藤大輔監督&中村錦之助の名作時代劇『反逆児』(1961)など映画にも多数出演している岩崎加根子は、母たちの二従姉妹らしい。そこまで近いわけでもないし直接の親戚付き合いもないようだが、最近の岩崎の写真を見ると伯母にそっくりなので驚いてしまった。

また、海洋都市などの研究などを行なっていた工学博士の寺井精英も親戚とのこと(先述の「芦屋の親戚」は寺井家だったようだ)。彼も大の映画好きで、マサチューセッツ工科大学で教鞭を執るためボストンに在住していた頃、現地でテレビ放送された映画を録画しまくったらしい。私が高校生の時に発行されていた「ホームビデオ」という雑誌に、その録画テープがズラリと並んだ書斎の写真が載っていたのを見て、人生の目標の一つが定まった(何十分の一かの規模で目標は達成したが)。


こうして見ると、父も母も、そして母方の親戚も映画好きばかり(ちょうどそういう時代だったせいもあるだろうが)。映画関係者もいる。今の私を生み出す土壌は、両親の結婚前からすでに出来上がっていたのだ。


最初に観た映画の記憶を求めて

私が生まれたのは昭和43(1968)年2月21日。この日は、九州南部では未明から降っていた大雪で交通が大混乱。そして10時44分には、宮崎県と鹿児島県境のえびの町(現・えびの市)付近を震源とするM6.1の「えびの地震」が発生(その前後にも、本震に近い規模の前震と余震が発生)。さらに、金銭トラブルから前日に暴力団員2名をライフルで射殺していた在日朝鮮人の男が寸又峡温泉の旅館に人質を取って籠城し始めた(24日に逮捕)「金嬉老事件」が発生。自然災害と人質事件というパニック映画の題材になりそうな出来事が一度に起こったのだ(ただし、金嬉老事件については社会的な大問題を孕んでいた)。まさに、私の将来の趣味嗜好を暗示するような日だったのだ。

恐らく私の誕生と子育てが最大のきっかけになって、両親は映画デートをやめたようだ。ただ、それには他の理由も考えられる。時代は60年代後半。映画産業は斜陽となり、町の映画館もどんどん減少。そこでかかる映画も、それまで彼らが観ていたような単純明快な娯楽アクションや洗練されたコメディは激減し、テーマ性を前面に出した重苦しい作品や、エログロが満載のどぎつい娯楽作品が増えた。幼い子供を抱えたアラフォーの自営業者夫婦の足が映画館から遠のいていったであろうことは、容易に想像がつく。

その代わりに彼らが熱中したのがテレビの映画劇場、というのも当然の流れだろう。ちょうど、各テレビ局のゴールデンタイムの『〇〇ロードショー』とか『〇〇洋画劇場』といった番組が出揃ったのが、70年代前半。彼らがリアルタイムで観ていた時代の映画が、家にいながら見ることができるのである。特に父は家にいる間、仕事をしていない時は(時には、していても)テレビばっかり見ていたという記憶しかない。もしかすると私以上にテレビっ子だったかも知れない。ともかく、テレビの映画劇場が私の映画人生のベースの大きな部分を占めているのも、この時代の両親の影響だったと見て間違いないだろう。

ただ、幼い頃の、本当にどうでもいいことについての記憶が鮮明に残っていることが多いのが自慢の私だが、映画館でもテレビでも、一番最初に観た映画が何だったのか、まったく思い出せない。それがあまりにも幼い頃だったら(たぶんそうだと思う)、覚えていないのも無理はないだろう。ちなみに、私の娘が2歳3ヶ月にして生まれて初めて映画館で観た映画は、とにかく人が死ぬ『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001)(厳密には、同作と同時上映で先に上映された『劇場版 とっとこハム太郎 ハムハムランド大冒険』だが…)。

で、私の方はどうだったのかという肝心な話の方に戻ると、幼少の頃の記憶と興行の記録を照らし合わせながら推測した結果、観に行った時のことをかなりはっきり覚えていた最古の作品が『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』(1972)だった。計算したら当時4歳。幼稚園に通っていた頃だが、この時は近所の友達数人と連れ立って、子供たちだけで観に行った記憶がある。ただし、現在まで続く私のゴジラ映画好きということから考えると信じられないことだが、何が不満だったのか、映画が始まってしばらくして、「男女が喫茶店で何か話している」シーンのあたりで、ヘソを曲げて一人で帰ってしまったのだ。その時に一人で歩いて帰った記憶があるので、親同伴ではなかったということになる。7年後、1979年の大晦日の夜に同作がテレビ放映された時に、今度はちゃんと最後まで見たが、例の喫茶店のシーンがあったので自分の記憶が正しかったことを確認したものの、それが映画の冒頭5分ぐらいだったことにショックを受けてしまった。離脱、早過ぎる!ただ、もしこれが本当に「私が生まれて初めて映画館で観た映画」だったとすれば、その時すでに伊福部昭の音楽(過去作品からの流用ではあるが…)に触れていたことにもなる。それは嬉しい。

とは言え、途中までしか観ていない同作を「生まれて初めて映画」にカウントしていいのかという疑問があるし、何より、先ほど触れた娘の場合と同様、先に同時上映の作品があったのだ。しかも5本!実はこれが、70年代の日本の子供たちを熱狂させたあのプログラムのことであり、私が同作を封切時にリアルタイムで観たという証拠にもなるのだ。


「二大まつり」から始まった?

私が幼稚園から小学校中学年の頃にかけて、日本中の子供たちを熱狂させた「二大映画まつり」が毎年、春・夏・冬の学校の休みの時期に行なわれていた。「東映まんがまつり」と「東宝チャンピオンまつり」だ(東映は基本的に春・夏のみ)。

どちらも似たような構成で、すでに放送が済んだ子供向けテレビ作品(アニメや特撮もの)の1話をブローアップしたものを数本ずつ、そして時には実写の中編作品なども加えて上映し、最後にメインのプログラムが来る。トリを務めるのは、東映は『海底三万マイル』(1970)や劇場用のオリジナル長~中編アニメ(当時はアニメを「まんが映画」と呼んでいたので「まんがまつり」という名称になった)、東宝がゴジラなどの怪獣映画という、どちらも自社の得意とするジャンルの作品だった。特に東宝は、年に1本の新作ゴジラ映画に加えて、旧作のゴジラや怪獣映画を(当時の興行上の規定により)短縮、そして作品によっては「ゴジラ」の名前を用いて改題したリバイバル版で本数を増やすという方法を採っていた。

東映の方が先に、原型になる興行を60年代中頃から始めていて、名称が「まんがまつり」に固定された69年に、東宝もその成功を見習って「チャンピオンまつり」を始めた、というわけだ。どちらも、男の子向けの作品に偏りがちなラインナップに女の子向けの作品も極力加えるなどの配慮が行なわれていた。また、テレビ作品に関しては“再放送”的な形にはなったが、当時はビデオもなかった時代だったため子供たちには大いに喜ばれた。

ちなみに、私が生まれ育った町では、かつては7館ほどあったという映画館も、私が物心ついた頃には2館に減っていた。どちらも同じ経営者で、館名は「太陽館」。「第一太陽映劇」と「第二太陽映劇」が(確か)正式名称だった。当然ながら全国と同じ日に公開された作品は少なく、この「二大映画まつり」も本来の公開日から少し遅れて、学校が始まってから日祝を中心にした数日間に上映する、ということがほとんどだった(春休み興行の分がゴールデンウィークに上映されたりとか)。当時の私の記憶と印象では、子供向けの作品は主に「第二」の方でやっていた記憶があった。なので、「子供向けは第二、大人向けは第一で上映する」と勝手に決めつけていた。どちらの館もすでに結構年季が入っていた印象だったが、2階席まであったので、今考えるとそこそこのキャパがあったのかも知れない。

上映が近くなると、下校時におじさんが校門の外に立っていて、児童たちに映画の割引券を配る。この時のテンション急上昇ぶりはいまだに記憶の片隅に残っている。東映の方はたまにどれがメインなのか分かりにくいプルグラムの組み方をしていたが、東宝はとにかくテレビ番組が続いて締めに怪獣映画、というスタイルだった。私もその「お楽しみは最後までとっておく」というスタイルが好きで、当時からいまだに、食事では一番の好物を最後まで取っておく、という変な食習慣がついてしまった(ちなみに私は、この食べ方を「チャンピオンまつり食い」と呼んでいる)。

当然、私も両方の「まつり」を観ていたので、最初に観た映画はこれらの興行のどれかだった可能性が高い。で、両方の公開時期とラインナップを何度も見返してみたのだが、東映の方はかなり記憶があやふや。ただ、東宝の方は前項の『ゴジラ対ガイガン』をはじめ、観に行った記憶が鮮明に残っているものが多い。『ゴジラ対ガイガン』の時は『帰ってきたウルトラマン』や『ミラーマン』などの特撮ヒーロー番組のブローアップ版を一緒に観たことを覚えていた。これが、『ゴジラ対ガイガン』を再上映ではなく「チャンピオンまつり」の興行の時に観たという証拠になる。同興行は72年3月12日から始まったので、その時点で私はすでに4歳になっていた。

では、厳しくチェックして「最後まできちんと観た劇場用長編映画」というところまでハードルを上げてみると、東宝・東映ともにやはり記憶が怪しい。東宝は過去のゴジラ映画のリバイバルだったが、記憶に残っていない。東映の方は劇場版の『仮面ライダー』があったりして、観たような気がするものの決め手がない。間違いなく最後まで観た記憶がはっきり残っているのが、『ゴジラ対ガイガン』の1年後、1973年の春興行で公開された『ゴジラ対メガロ』だ。この時期に宮崎駿の『パンダコパンダ』も観た記憶があったが、どうやらこの時の興行で上映された続編『雨ふりサーカス』の方だけだったようだ。

ただし、この年は「まんがまつり」も同じく3月17日に公開が始まっており、同興行で上映された『飛び出す人造人間キカイダー』も観た記憶がある。厚紙のフレームに赤と青のセロハンを貼ったメガネをかけて観るという、昔の立体(3D)映画である。太陽館でどちらの興行が先に上映されたかによって「生まれて初めて映画」が変わってくるのだが、新聞などには当時の田舎町の上映記録は載っておらず、正確な特定には至らなかった。私としても、ちょっと残念である。

(つづく)

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