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第二章 今の私ができ始めた頃~1970年代後半~(1)

『日本沈没』~1973年映画版~

さて、前項で私が「二大まつりの全盛期」と位置付けた70年代中期、私は一般的に(=「まつり」の上映作品と比べると)“大人向け”に分類される映画も観るようになっていた。その最初と思われるのが、『キン逆』の後(恐らく1~2ヶ月後)に観た『日本沈没』(1973)だ。時期的には小学校への入学直前ぐらいと思われる。前述のように、どういうきっかけで当時幼稚園の年長組だった私がこの映画を観たいと思ったのか思い出せないが、すでにこの種のパニック・スペクタクルに興味があったようだったということは、うっすらと覚えている。当時、我が家の隣が理容店で、そこの娘さん(当時は中学生ぐらいだったか?)が実の姉のように可愛がってくれていた。母や伯母が忙しかったのか、そのお姉さんも観たかったからなのかは忘れたが、彼女に連れて行ってもらった。上映はやはり「第一」。この時が私にとって「初第一」。この経験も、前述の「大人向けは第一」の方程式のきっかけになったのだろう。お姉さんは映画が終わって私を家に送った時も「怖かった!」と連発していたのに、私は泣きはおろか怯えもせず2時間20分しっかり観ていたらしい。私の「大人の映画デビュー」は、意外にも自然に成功したようだ。

この映画、公開から割りとすぐにフジテレビの『ゴールデン洋画劇場』で前後編に分けて放映されたと記憶していたのだが、調べたら1977年の新年1・2週目だった。公開からほぼ3年後(それでも、当時としてはまあまあ早い方ではあった)、私は小3の冬だったことになる。前編の放送は冬休み最終日で、「宿題を最終日の夜にまとめてやる」という典型的なダメ小学生だった私は、半ベソで習字の課題を書きながら見ていた。後編はもうすっかり余裕だったが、140分の本編は2時間枠(CM抜きで正味90数分)×2回で放送するにはちょっと短い。前編の振り返りを後編の頭に付けても、結構時間が余ってしまう。そのせいか、後編の時は早々と本編が終わり、原作者の小松左京と同番組の解説者の高島忠夫(小松とは旧制中学の同級生で、一緒にバンド活動をやっていた仲)の対談が延々と続いた。

このテレビ放映の前後どちらか記憶が定かではないのだが、たまたま「第一」の前を歩いていた私は、劇場の脇にある倉庫の巨大な扉が開いていて、その奥に『日本沈没』の巨大な看板があるのを目撃し、思わず興奮して近寄り、覗き込んでしまった。かなり大きかったのに、公開当時に見た記憶がなかったせいもあったのだろう。しかし、当時のことだから大抵の看板は上映が終われば廃棄されるか他の作品のために再利用されただろうに、上映から3年ぐらい経っていたこの作品だけが、倉庫の奥にきちんと保存されていたのが、子供心にも不思議だった。あまりに大き過ぎて、簡単に廃棄も再利用も出来なかったのだろうか?しかも、私はその後も数年間、倉庫の奥にこの看板があったのを何度か目撃している。気がついたらなくなっていたので、公開から5~6年経ってようやく処理できたのだろうか?

『日本沈没』~1974年テレビ版~

『日本沈没』は映画版に続いてテレビドラマ版も制作され、映画版公開の約10ヶ月後である74年10月からTBS系で放送を開始した。だが、熊本でのTBSの系列局であるRKKでは、同作が放送された日曜の夜8時は日本テレビ系の番組を同時ネットしていて、リアルタイムで見ることはできなかった(にもかかわらず、同作には熊本ロケの話が2回もある)。調べたところ、同作がRKKで放送を開始したのは75年12月。何と本放送から1年2ヶ月遅れて、しかも火曜日の深夜(と言っても11時半頃から始まるぐらいの時間帯だが、当時はそれでも立派な“深夜枠”だった)に放送されたのだ。とは言え、同様に日テレの『太陽にほえろ!』を同時ネットしていた金曜夜8時のオンエアだった『3年B組金八先生』の第1シリーズに至っては丸3年寝かされた(主題歌『贈る言葉』が大ヒットしていたのが、私が小学校を卒業する頃。同曲が流れた『金八先生』が熊本で実際に放送されたのは、私が中学を卒業する頃)ので、まだ短い方である。

当時小学2年から3年に上がるぐらいの時期だった私は、実はこのシリーズの存在すら知らず、たまたまテレビのラテ欄に記載されていたのを見た時には、すでに前半のクライマックスである京都沈没の前中後編だった。「え?こんなのあってたの?」と驚いてその夜から見ようとしたのだが、何せ夜更かしができない(すぐに眠くなる)子供だったので、結局この時の放送できちんと見れたのは、全26話中わずか5話だった。

それから10数年後の大学時代になって、突然、平日の夕方に帯で再放送があり、ようやく全話見ることができたのだが、ゲストキャラの子供・女性・老人などがどんどん命を落とす情容赦ない展開の話が意外に多くて驚いた。調べてみたら、それらの話の脚本はすべて、私が大好きだったテレビドラマ『特捜最前線』などで有名な長坂秀佳だった。

五木ひろしが歌う主題歌「明日の愛」が毎回のオープニングで流れたが、私はなぜか数話でだけ流れた、同じく五木が歌う挿入歌『小鳥』の方が記憶に残っていた。『明日の愛』ともども作詞=山口洋子&作曲=筒美京平という豪華な組み合わせ。2019年11月、小松原作の映画やテレビ作品の音楽をオーケストラが生演奏する「小松左京音楽祭」が開催されたのだが、特別ゲストで五木が出演し、『明日の愛』と『小鳥』を歌うという奇跡のようなプログラムが組まれた。私も聴きに行ったが、やはり『小鳥』で涙があふれてきた。

パニック映画ブームの最盛期

『日本沈没』に続く「パニック映画路線」として東宝が製作した『ノストラダムスの大予言』(1974)と『東京湾炎上』(1975)も、もちろん観に行った。それぞれ、小学1年と2年の時。どちらも、厳密な意味では“パニック映画”の範疇からは若干外れる内容だが、それを何となく理解しつつ、「だいたいそっち系」という、かなり大雑把な分類で観た記憶がある。そして、どちらも「第一」での上映。恐らく私は、同じ学年の中で早々に「第一」に行った回数を増やした児童だったのではないだろうか。

『ノストラダムス』は、言わずと知れた五島勉の「予言解読書」を基に、人類滅亡のビジョンを映像化した「世界災厄絵巻」。映画を観た後で、映画の内容を描いた紙芝居を作った(苦笑)ことも覚えている。放射能を大量に浴びた人間の変質など、一部シーンの表現が問題視され、公開の数ヶ月後に該当シーンをカットすることになったが、私は問題の「軟体人間」をスクリーンで観たのをはっきり覚えていたので、かなり早い時期に観ていたことになる(そりゃそうだろう)。この問題の影響から、現在は作品自体が封印状態になっているのは、映画ファンの間ではもはや常識。

『東京湾炎上』になると、ストーリー上はさらにパニック映画から程遠くなってしまう。貧困国の人々で組織された組織が巨大タンカーをジャックし、資源の公平な分配を求め、日本有数の石油備蓄基地の爆破を要求、拒絶すれば東京湾の真ん中でタンカーを爆破する、と脅迫する。東京湾でのタンカー爆破は想像の視覚化、石油基地爆破の生中継画像は実は特撮だった…という『カプリコン・1』(1977)を思わせる物語で、言わば犯罪サスペンス。だが、それはそれで十分楽しめた。

しかも、『東京湾炎上』には4年後に意外な形で“後日譚”が生まれた。小学6年生の時に行なわれた修学旅行の行き先は隣県の鹿児島。その見学地の中に、『東京湾炎上』の劇中に登場する「鹿児島県にある石油備蓄基地」のモデルになった日石の喜入石油基地があったのだ。間近で見るタンクは一つ一つが巨大で怖いぐらいだったのだが、私一人だけは『東京湾炎上』の作品世界の中に入り込めたことで興奮していた。もしかすると、私にとってこれが人生初の“聖地巡礼”だったのかも知れない。

ちなみに、『東京湾炎上』とほぼ同時期に公開された、和製パニック・サスペンスの傑作『新幹線大爆破』(1975)は、リアルタイムでは観ていない。恐らく、全国公開で大コケしたため、太陽館は上映を見送ったのかも知れない(上映したら、絶対に観に行っていたはずだ)。

しかし、これらの和製作品群を含めて、当時の世界的なパニック映画ブームの頂点に立つ作品こそが、小学2年生だった私のハートをガッチリ掴んだのだった。

劇場鑑賞最多記録

「チャンピオンまつり」での『モスラ』の再上映が始まった頃の74年12月にアメリカで公開された『タワーリング・インフェルノ』が日本で公開されたのは、何と約半年後の75年6月末(当然、太陽館での上映は、それよりさらに遅れたはず)。3年後の『スター・ウォーズ』(1977)の13ヶ月後と比べたら遥かに短いが、世界的なパニック映画ブームの真っ只中、しかもその代表格となるほどの大ヒットを記録していたにもかかわらず半年も寝かしていたのは、どうにも理解に苦しむ。とは言え、その半年の間の本国での大ヒットの話が伝わると、日本の映画ファン、そして田舎のパニック映画少年の期待は、いやが上にも盛り上がった。

蛇足だが、当時を知る熊本人にとっては、この映画はリアルな恐怖を感じるものだった。1973年11月29日(『日本沈没』の公開日のちょうど1ヶ月前)、熊本市の繁華街にあった熊本でも有数の大型百貨店「大洋デパート」で火災が発生、104名の命が失われるという、日本の百貨店火災史上最悪の大惨事になった。それから約1年半。まだその記憶が生々しい中での、高層ビル火災の映画。当時、一般向け試写会が開催されたのは、大洋から程近い場所にある老舗・鶴屋百貨店の上層階にあるホールだったらしい。観に行った人たちの恐怖は容易に想像がつく。

本作については、拙著『絶叫!パニック映画大全』で熱く語り倒しているので割愛する(単に、話せば長くなるから)。同著に書いていないこと―――上梓の後に起きたことも含めて、私の鑑賞関係に絞って書いておこう。

最初に観た時は、伯母に連れられて行った。これも当然「第一」での上映。上映時間などきちんと調べないまま行ったので、上映はすでに始まっていた(それでも入場できたのが昭和の映画館である)。入った時に画面に映っていたのは、グラスタワーの落成式のテープカットに続き、ビルの照明が下の階の方から順に点灯していき、巨大な光の柱となったグラスタワーの偉容がサンフランシスコの夜空に浮かび上がるという、(災害シーン以外での)前半の盛り上がりポイント。途中からでも期待に違わぬ面白さに酔いしれ、結局、次の回の同じところまで観てから帰った記憶がある。

年齢が年齢だから当然だったのかも知れないが、それまで私は、同じ映画を上映期間中に再度観たことがなかった。だが、この映画は違った。1回目に映画の最初から観なかったので不完全燃焼だったのだろう。高揚感に満ちたあのオープニングは、やはり映画の最初に観なければ、と子供ながらに思ったのだろうか、すぐに2回目を観たいと思った。で、確か間髪をあまり入れずに、今度は母に付き添ってもらって2回目を観に行った。ところがそれでも飽き足らず、それどころか何かのスイッチが入ったかのように、その後も数日おきに観に行きたい衝動に駆られ、ついに私は入場料だけもらって一人で観に行くようになってしまった。

結局私は、この上映期間中に第一太陽で10回もこの作品を観てしまった。これは、その後長く、私の人生において「同一作品を劇場で鑑賞した最多記録」になった。上映期間後半になると、学校の遠足でいつもより早めに帰宅したので観に行った、なんてこともあった。もはや中毒だ。ただこれには、太陽館での上映が比較的長かった(もしくは長くなった)から、ということも原因として考えられる。後半になるといつのまにか同時上映の作品が付いていたりしていた。それがなぜか研ナオコ主演の喜劇映画(公開時期やかすかに覚えている「四国にお遍路さんに行く」という展開などから推理すると、恐らく『にっぽん美女物語 女の中の女』1975だったと思われる)だったりしたのも、昭和の地方映画館あるある。そちらもちゃんと観たのはどういう判断からだったのだとうか?

数年前、久しぶりに生まれ故郷の町をぶらつく機会があったので、当時私が住んでいた家から「第一」があったところ(現在どうなっているかは後述)まで歩いてみたら、今の私の足で5分と、記憶していた以上に近かったので驚いた。小学2年生の足だとどれぐらいかかっただろうか?大雑把に見積もって倍かかったとしても10分。通っていた小学校は遥かに遠かったので、やはり“近所”の感覚だったのだろう。

とは言え…いくら田舎町とは言え、いくら“近所”とは言え、いくら昭和とは言え、小学2年生に一人で映画を観に行かせるとは…自分が親となった今ではどうかとは思う一方で、今の自分を形成するきっかけを作ってくれたわけだから、私の親に対して感じるのは、やはり感謝の方が強い。

それにしても、どうしても思い出せないのだが、当時の私はこの映画が3時間近い長編だと認識していたのだろうか?先ほど触れた同時上映作品も加えると、4時間を優に超してしまう。…と考えていて、ふと思い出したのが、先ほどの「二大まつり」。調べてみたところ、どちらも一回の総上映時間が3時間~3時間半。しかも、よそはどうだったのか知らないが、太陽館では途中で休憩を入れずに全作品続けて上映していたという記憶しかない(だから、上映中にトイレに行ったことが何度もあるが、昭和の映画館らしくトイレがスクリーンの裏にあったので、音だけだが続けて鑑賞することはできた)。その記憶が正しければ、3時間前後の上映を途中休憩なしで観る習慣が、幼稚園の年長の頃から出来ていたことになる。それに比べれば、『日本沈没』や『タワーリング―』は短い方である。あの年齢でも(たぶん)平気で観れたことが納得できる。

そう言えば、アカデミー歌曲賞を獲得した「愛のテーマ」のレコード(EP)まで買ってもらった。とは言え、田舎のレコード屋にはなかなかなく、やっと見つけたのが(映画ファンの間では有名な)中沢厚子による日本語詞のカバー・バージョン。それでもいいかと思って買ったものの、小生意気にも「やっぱり違う」と思った私は、モーリン・マクガヴァンが歌うオリジナル版を執念で見つけ出し、買ってもらった。とは言え、本当に欲しかったのはもちろんあの高揚感に満ちたオープニング・タイトルの曲や、サスペンスに満ちたクライマックスの時限爆弾爆発までの曲。要するにLPである。ただ、当時の私はそんなものが出ているとは思わず、探さなかった。探したところで、あの頃のあの町のレコード屋に置いてあったとも思えないが…。ともあれ、これが私にとっての「初サントラ」と言えないこともないが、ハードルを上げてアルバムに限定すると、これからさらに数年後のことになる。

それから四半世紀以上経ち、主に娘と観に行った『モンスターズ・インク』(2001)も封切時に劇場で10回鑑賞してタイ記録を達成、さらに2013年には3D版が期間限定で劇場公開され、それを2回観たため最多記録の首位には『モンスターズ・インク』が就いた。ところがその年の年末、名作映画を1~2週間単位で1年間にわたってリバイバル上映していく「午前十時の映画祭」で『タワーリング―』が上映され、その際に2回観たことで再びタイ記録に…というところまでは『パニック映画大全』でも触れた。しかし、もうこれが同作をスクリーンで観る最後の機会だと思ったのも事実だ。

ところが7年後の2020年、思いも寄らない展開で私は再び『タワーリング―』をスクリーンで観る機会を得ることができた。新型コロナウイルスの感染拡大の影響で新作映画の公開が立て続けに延期になり、映画館は上映する作品がなくなってきた。公開していた新作映画の上映期間を延長するなど各劇場が対応に苦慮する中、「午前十時の映画祭」の主要上映劇場であるTOHOシネマズでは、過去に「午前十時」で上映された作品の中から数本を上映するという対応をした館が多かった(本来の「午前十時」の開催館ではないところでも)。そのおかげで、『タワーリング―』も予定外の再上映が行なわれ、私は諦めていたスクリーンでの『タワーリング―』との“再会”を実現させることができた。前回の頃は、私は生活のために(映画とはまったく関係ない仕事で)平日は勤めに出ていたため週末にしか観に行けず、2回だけになってしまった。今回は1週間だが、「午前十時」のように朝から1日1回の上映ではない。そして何より、フリーランス専業になっていたので平日でも観に行けた。結局、“観に行きやすさ”はどちらも同じぐらいだったようで、私はキリよく15回になるように3回観に行った。というわけで、2022年現在、私が同一の映画を劇場で観た最多記録は、15回で再び『タワーリング―』になっているのだ。

(つづく)


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