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第二章 今の私ができ始めた頃~1970年代後半~(4)

復活の79年

休止していたテレビの特撮&ヒーローものが翌79年に集中して復活したことは、78年に盛り上がったこれらの動きの成果と言えるだろう。

2月には2年ぶりのスーパー戦隊となった『バトルフィーバーJ』。司令官役に往年の時代劇スター・東千代之介を担ぎ出すという、東映ならではのキャスティング。当時の私は東のことは知らなかったものの、端正な顔立ちと漂う威厳、そしてたびたび描かれた時代劇風立ち回りの際の動きの良さに、子供ながら「只者ではない」と直感、母や伯母に訊くと、リアルタイムで東の出演作を見ていただけに即答し、「『ゴレンジャー』の孫みたいな番組」に出ていることを驚いていた。

『ウルトラ』シリーズは映画とテレビの両面作戦だった。1作目の『ウルトラマン』の中から複数話を選んで編集した2本の劇場版―――3月に『実相寺昭雄監督作品ウルトラマン』、7月に『ウルトラマン怪獣大決戦』が公開された。そして4月からの新番組として4年ぶりのシリーズ新作『ザ☆ウルトラマン』の放送が開始されたのだが、意外にもアニメでの復活だったことがファンの話題と賛否両論を呼んだ。ちなみに『怪獣大決戦』では、ウルトラファミリーがほぼ全員集合するシーンなどの新撮部分も多かったのだが、そこに『ザ☆ウルトラマン』の主人公・ウルトラマンジョーニアスも実写で登場した。この撮影用にわざわざスーツが作られたのだ(アニメ版のスマートな容姿と違い、微妙にずんぐりした体形なのは、スーツアクターの体形に合わせて作られる実写特撮ならではのご愛嬌)。数ヶ月後、地元の公会堂で行なわれた家電メーカーの商談会になぜかジョーニアスが来た。この映画の撮影用に作られたスーツだったと思うのだが、一緒に写真を撮ってもらった。あの写真、どこへ行ったのか…。そう言えば、私はこの頃から、太陽館で上映されなさそうな映画は熊本市まで観に行くようになった。いよいよ重症化した証拠だが、その皮切りがこの二本の劇場版だったと思う。

そして10月には新作の『仮面ライダー』が放送開始。第1作と同じ番組タイトルに象徴されるように原点回帰を目指しながらも、特殊な装置を使って空を飛ぶという斬新な設定も行なうなど、見ているこちらも「ああ、いろいろ悩みながら作ってるんだなあ」と感じさせる作品だった。しかし、本作の最大の特徴は、以前のシリーズでは1作目の藤岡弘、に象徴されるように、主人公役はちょっと暑め(熱め)の俳優が務めることがほとんどだったが、本作は精悍なイケメンの村上弘明(デビュー直後の若手時代)が主演だった。平成に入ってからの「ライダー役者=新人のイケメン」という流れの原典になったのは、どうもこの作品だったのではないかと思う。その後、昭和末期の『仮面ライダーBLACK』と続編の『BLACK RX』が、主演の倉田てつをが女性の絶大な人気を得たことで番組自体も(それまではこの種の番組に興味がなかった)女性が多く見るようになった、という流れが、その後の平成ライダーシリーズにも影響を与えたように思える(ただし、80年代半ばぐらいには、スーパー戦隊シリーズでも同様の傾向が徐々に見られるようになっていたらしいので、相乗効果だったのかも知れない)。

完全復活はできなかったが…

ただし、この年に完全復活できなかったシリーズがある。ゴジラだ。休止期間中も新作の企画は何度も取り沙汰され、元の“大人向け”作品としてシリーズを復活させようという動きが報じられていた。もしかするとこの背景には、角川映画が発端となって邦画界が大作映画ブームになっていたこともあったかも知れない。特に『日米合作 ゴジラ』のタイトルは、東宝レコードのライナーノートの作品リストにも「公開予定の次回作」として掲載されていたほどで、私はワクワクしながらひたすらその実現を待った。しかし、なかなかこの企画は実現しなかった。

そんな状況の中で迎えた79年は、ゴジラ誕生25周年のメモリアル・イヤーだった。正直言って若干中途半端な年数ではあるが、前年のレコードとファンコレの発売が追い風となったのか、ゴジラもそこそこのブームになった。残念ながらこの年も新作の製作には至らなかったが、全国の主要都市のスクリーンに、ゴジラがその姿を現したのだ。

8月に約1ヶ月間行なわれた特集上映「ゴジラ映画大全集」では、『キンゴジ』、『怪獣大戦争』(1965)、『ゴジラ対メカゴジラ』の3本がリバイバル公開された。九州では確か福岡だけで上映があったのだが、私が他の都市へ映画を観に行くことができたのは熊本市までで、泣く泣く諦めた。だが、そんな私をさらに絶望的なまでに羨ましがらせたのが、東京・日劇での上映。なんと、期間中その日の最終回に、シリーズの残り12本と1作目の海外版『怪獣王ゴジラ』、そして他の東宝SFの名作から選ばれた8本が日替わりで上映されたのだ。つまり、当時の時点でのシリーズ全作品上映。まさに“大全集”だったのだ。この時ほど、田舎に生まれ育った自分の境遇を呪ったことはなかった(生まれて11年だから、こんなことでいちいち絶望する)。この時、上映された全作品のポスターをチラシサイズに縮小し、裏面には各作品のストーリーやデータがびっしり書き込まれたセットが発売された。数年後の中学時代、通販で映画のパンフレットを買い漁るようになっていた私はこのセットも手に入れ、ずっと引きずっていた当時の悔しさを少しでも和らげることができた。あのセット、どこへ行ったのか…。

テレビで「大全集」

そんな動きと連動するかのように、この年はゴールデンタイムに設けた全国ネットの特別枠でのゴジラ映画のテレビ放映が、局を跨いで4回もあったのだ。BSもCSもなかったこの当時としては異例と言っていいほどで、これは間違いなく「ブームの反映」だった。そして、当時我が家には家庭用ビデオがなかったため、せめて音だけでも…とテレビから流れる映画を音声を録音するという、当時の少年少女の多くがやっていた「ビデオ時代以前の映画コレクション」を私が始めたのも、これらの放送がきっかけだった。

その1本目が、日テレで4月に放送された『ゴジラ対メカゴジラ』。この時は映画の冒頭部分に特別な編集が施されていた。放送枠の冒頭でいきなり吼えるアンギラス~タイトル文字のアバン・タイトル部分が、音楽を差し替えて流れる。それからスポンサー読み上げと最初のCMが入った後、本来なら当然先ほどのアバン・タイトルの前に来るはずの東宝マーク、そしてメイン・タイトル…なのだが、ここは何と映画前半の見せ場であるにせゴジラ→メカゴジラと本物のゴジラの戦いのシークエンスをバックに、局で作成したスタッフ・キャストのクレジットが表示される。しかも、これまた音楽が差し替えられていて、戦闘のテーマ(東宝レコードのアルバムにも収録されていた、にせゴジラとアンギラスの戦いのところの曲)をリピートして流すという、かなり凝った作り。沖縄風の音楽をバックに沖縄の名所と並べてクレジットが表示されるオリジナルとはまったく印象が変わってしまっているが、いきなり怪獣の姿をバンバン出しているという意味では、サービス満点の構成と言える。オリジナルをかなり大胆に改変してはあるものの、音楽の差し替え部分は東宝が協力しないとできなさそうな状態になっていたので、結構手間をかけてあったのだろう。本編部分には、放送時間枠に合わせたカットが行なわれた程度で大きな改変は施されていなかった。ちなみに、この放送は水曜日の夜に行なわれたのだが、熊本で放送したRKKでは通常午後7時から7時半まではキー局のTBSの番組、7時半から9時までが日テレ。その結果、7時から『ザ☆ウルトラマン』の第1回、その後にこの放送が行なわれるという、まるで「チャンピオンまつり」風の“二本立て”になったのだ。これには、かなりテンションが上がった。

夏休みに入った直後の7月末には、フジテレビで『怪獣総進撃』が放送されたのだが、これがまた不思議な状態。タイトルはちゃんと『怪獣総進撃』だったのだが、その後の編集(特にメイン・タイトルを映画の最後に持ってきて、そのままエンドマークになるという大胆な改変)は、「チャンピオンまつり」で上映された『ゴジラ電撃大作戦』と同じ。つまり、『電撃大作戦』のタイトル部分だけオリジナルのものに差し替えた、またもや特別バージョンだったのだ(ちなみに、同作は83年にもTBSで放送されたが、その時はタイトルも本編も『電撃大作戦』のまま放送された)。

そしてこのメモリアル・イヤーの最後を飾るべく、暮れも押し詰まった12月下旬になって2本も放送された。まずは22日に日テレが夜7時半からの「土曜スペシャル」の枠で『メカゴジラの逆襲』を。前作を春に放送したので年内にフォローしようとしたのだろう。ただし、RKKの土曜の夜は10時まで完全にTBSの同時ネットだったので、今回は熊本での同時ネットはなく、またまた悔しい思いをした。結局、本作がRKKで放送されたのは、翌年のゴールデンウィーク明けの土曜日の昼間。この枠のタイトルも(RKK独自の)「土曜スペシャル」だったのは偶然か?

締めの一本はまさに大晦日にフジテレビで放送された、私にとっては因縁(?)の『ゴジラ対ガイガン』だった。これまでの三本は1時間半枠だったのだが、この時は2時間枠。TBS(=RKK)の『輝く!日本レコード大賞』(当時は大晦日の午後7時からの2時間枠だった)の真裏だったわけだ。90分枠の番組はCM抜きで正味70数分。どの作品も10~15分ぐらいカットしての放送だったのだが、上映時間が89分の『ゴジラ対ガイガン』はノーカットで放送されたと思われる。「思われる」と書かなければならないのは、またも当時の熊本の民放事情の影響を受けたからだ。この年の大晦日は月曜日。当時のTKUの月曜夜の編成は、午後7時から日テレの『びっくり日本新記録』を放送(本来は日曜日の同時間帯だが、TKUでは月曜に放送されていた。前日に放送された分なのか何週か遅れていたのかは不明)していて、フジの同時ネットは7時半からだった。そのため、この時も通常と同じく7時半までは『びっくり』が放送され、『ゴジラ対ガイガン』は午後7時半から。つまり30分短かったため、私が見たのは短縮版だったのだ。当時は熊本に限らずクロスネットが多かったので、この措置はTKUだけではなかったかも知れない。いずれにしても、メモリアル・イヤーの「締めの一本」はちょっと残念な形で放送された。とは言え、日劇はおろか福岡までも観に行けなかった私にとって、これらのテレビ放映が「ゴジラ映画大全集」の代わりとなってくれたのだ。

ちなみに、フジは翌年以降もゴジラ映画の全国ネット放映を続けた。80年の大晦日には、再び2時間枠で『怪獣大戦争』を放送。ただし、これもまたちょっとややこしい状態での放送だった。タイトル部分は、71年に「チャンピオンまつり」で再上映された際に改められた『怪獣大戦争 キングギドラ対ゴジラ』。「チャンピオンまつり」の短縮版は原版のフィルムに直接ハサミを入れたため、後年に至るまで混乱を引き起こしたらしい。『怪獣大戦争』も、本編部分はすぐに完全な形に戻されたものの、タイトルだけが差し替えられたままで元のタイトルが長年行方不明だったようだ(後で触れる83年の完全版リバイバル上映でも、タイトル部分だけが『キングギドラ対ゴジラ』のままだった)。で、『怪獣大戦争』は上映時間が94分なのでほぼノーカットで上映できたはずなのだが、この時はなぜか番組冒頭に中盤の見せ場である三大怪獣の破壊シーンを数分間流してから本編開始。結局、後で計ったら88分に短縮されていたので、ちょっと納得いかないまま年を越したのだった。

そして、その81年は8月上旬に『ゴジラ対メガロ』。とうとう、生まれて初めて映画館で“きちんと”観た映画との再会である。この時は、ブームも沈静化してしまっていたこともあり、土曜の夜とは言え90分枠でひっそりと放送されたという印象だった。とは言え、この間もゴジラをはじめ特撮もののブームは着実に継続していて、それが数年後のゴジラの本格復活へとつながったのだ。

また、この3年間のどこかで(確か、これも79年)、フジテレビのプロ野球中継の“雨傘番組”で、『キングコング対ゴジラ』が予定に上がったことがあった。必死に雨乞いをしたものの、現地に雨は降らなかった。そのナイターをビール片手に見ていた父の姿を見て、ただでさえ運動神経が鈍かった私は、スポーツをやることだけでなく観ることも大嫌いになった。


ともあれ、この年のゴジラブームが、5年後にようやく実現するゴジラ完全復活への本格的な第一歩だったと言えそうだ。

亀に先を越される

ところで、この79年は、私だけだがガメラとのファースト・コンタクトを遂げた年でもあった。前年からの流れで、2月に発売されたファンコレ「世紀の大怪獣ガメラ 大映特撮映像の巨星」を購入。それまで『ガメラ』シリーズはたぶん一作も観たことがなかった(私が3歳の時に大映が倒産してシリーズも終わっていた)ので、『ゴジラ』の時よりも「未知の世界度」が高かった。特に1作目はシナリオを完全採録してあり、またも脚本を書くことへの興味と意欲を膨らませてしまった(だから、私の脚本の師匠の一人は高橋二三ということになる…のか?)。

そしてその本の中で、前年に東宝レコードから『ゴジラ』と同様のオムニバス・サントラ『大怪獣ガメラ』が出ていたこにも触れられていたので、例のレコード売り場で取り寄せてもらった。それが、5年生の終業式の後の春休みだったと思う(前項で触れた『ゴジラ対メカゴジラ』のテレビ放送の直前)。ゴジラ映画のものとはまったく違う顔触れの作曲家と曲調の音楽。特に初期に2作担当した山内正の重厚な作風に魅了された。もちろんこの時は、山内が伊福部門下の一人だとは知る由もなかった。モロに『水戸黄門』を連想させる曲調の『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』(1966)の木下忠司、シリーズの“顔”だった『ガメラマーチ』の広瀬健次郎、そしてシリーズ後半を一手に引き受けた菊池俊輔。すでに『仮面ライダー』や『Gメン’75』などのテレビ作品で耳馴染みだった菊池も含めて、全員がその後興味と研究の対象になる作曲家ばかりだった。

8月に入った頃だったか、新聞の折り込みに混じっていたという記憶があるのだが、子供向けの映画の上映会の割引券を手に入れた。いつもなら太陽館のおじさんが校門で配っていたような、ゴジラとかのキャラクターの写真が満載されているようなものではなく、上映作品のタイトルが書かれているだけのシンプルなもの。会場も太陽館ではなく、地元の文化会館。日曜の昼間に1回だけ。その形式は「二大まつり」と似ていたが、ラインナップがまったく違った。ディズニーの短編アニメが6~7本、そしてトリが『ガメラ対深海怪獣ジグラ』(1971)という不思議な組み合わせ。人生初のガメラ映画、そして人生初の(きちんと最後まで観た)大映映画は、まさに東宝作品との作風の違いに子供ながら戸惑いつつ、画質が異様によかったという印象だった。あとは、テレビの『3時のあなた』の司会の人(坪内ミキ子)が出ていたこと、ジグラの背びれで『ガメラマーチ』を演奏するガメラ、そして八並映子の水着姿…と、微妙なところが印象に残った。

そして翌80年、旧大映の倒産で中断していた『ガメラ』シリーズは、『宇宙怪獣ガメラ』でゴジラより先に復活する。ただし、本編全体と特撮の一部は新規撮影ながら、過去のシリーズの怪獣の登場シーンを巧みに編集した総集編的な作りの作品ではあったが…。まあ、これも「ガメラ映画大全集」と思えばかなり楽しめる映画だ。ちょっと意地悪な見方をすれば、このガメラの復活は前年のゴジラブームの波に乗ったところも多少はあるのではないか?と思えてしまう。しかし、それでもよかった。ゴジラ、ガメラ、ウルトラマン、仮面ライダー、スーパー戦隊…。みんな揃って盛り上がれば文句はなかった。だって、我々は特撮ものがみんな好きなんだから(笑)。


こうした79年の盛り上がりは、「ファンコレ」の発展形とも言える特撮もの中心の季刊雑誌「宇宙船」を生んだ。これも私の愛読誌となったのは言うまでもない。これらの流れから、80年代はさらに特撮ものがブームになり市民権を得るだろう、と期待したのは私だけではなかっただろう。その私も、特撮ものを起点として、映画の趣味がどんどんとんでもない方向へ拡がっていくことになるのだ。

(つづく)


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