一神教の限界
山上容疑者の母親は統一教会をやめる気がまったくないらしい。
やめるかどうかは置いといて、彼女はグループの中にいる人たちに対して抗議してないのだろうか。
統一教会の信じる神がイエス様なのか他の誰かなのか、私は知らない。
もし母親が、神か、もしくは同じグループの誰かに「おかしくないですか?」と伝えられなくなっているとしたら、それは恐ろしいことだ。
1と0
別の記事にも書いたが、一神教は「正しい神とそれ以外」という、いわゆるヘブライズムに根ざしている。
これは宗教に限ったことではない。古代ギリシャの哲学にもこういう姿勢はあった。ヨーロッパでは長いことそうした形式で物事が考えられてきた。
これを二元論という。善と悪もそうだが、体と心、主観と客観とか、いろんなものを2つに分けていく考え方だ。
そういう精神性はコンピュータに代表されるようなデジタル技術の発展にもつながった。だから二元論そのものは別に悪いものでも問題でもないと思う。特に、科学的な物事を考える時には二元論が大きな成果をもたらす。
でも、だからといって「悪いものじゃないんだから、いちおう正しいんだよね」とも判断できない。これが二元論の怖いところだ。
スイッチがONの状態を1、OFFの状態を0とした時、1でも0でもない状態はありえるだろうか?1以外のものを全て0と呼んでしまっていいのか?という問いがそこにある。
反証可能性
「反証可能性」という言葉がある。反証、つまり証明の逆で、「これは本当のことではない」という答えを出すことだ。「ファクトチェック」という言葉と似ている。
地球が太陽の周りをまわっているのか、太陽の方がまわっているのか・・・という話題なら、主張に反証可能性があるのだ。
反論の余地があることは科学的なこと。言い換えるなら、反論の余地がないことは非科学的なことだ。
宗教、というか神話の場合には、もちろん反証可能性がない。証明の可能性もないのだけれど…
古代の出来事だけでなく、例えば現代でも、「美人は性格が悪い」みたいな主張には反証可能性がない。
そもそも、どういう物差しで測ればいいいのか、という話になる。
そういった主張を聞いた人がそれを信じるかどうかは、論理的に「合ってるかどうか」とは何の関係もない要素によって決まる。聞いた人がなんとなくいいな、と思ったら受け入れるし、嫌だな、と思ったら拒否する。
そのため、怪しい育毛剤やダイエット食品が売れるのだ。
集団のまとめ
一神教の信者はどうして古代の出来事や、反証可能性のない主張にこだわるのか。それは誰にも反証できないからだ。
「ほら、誰も嘘だと証明できないでしょう。やっぱりこれは真実なんですよ」というパターンに会話を持っていくこともできる。
というか、ほとんどの神話はそうして「真理」を貫いている。
もしその主張がちょっと無茶すぎるというか、強引すぎる内容であっても、だれひとり反証できないことによって、ある意味その立場を守られるのだ。
政治家も同じような方法で強引すぎる主張を無理やり通したりする。証明もできないけど、反証もできないですよね、というのは、会話における有効なガード戦法なのだ。
どうしてそんなことをしたいのか。
ひとつには、絶対的な正しさによって他人を動かしたいからという理由があるのだろう。
あとは、あえて思考しないことに美徳や安心をを感じる人が多いのかもしれない。
その両者が出会った時、クレイジーな搾取が始まる。
3
二元論と反証可能性について考えることは、空気を読まないことだ。読まないというか、集団と同じことをするときと、違うことをするときがある。
場合によっては、所属する集団に逆らうかもしれない。
それでも、だれかが「やっぱりおかしくないですか?」と言えるグループがまともなグループだと私は考える。
もっとも、周到に洗脳された集団においては、「おかしくないですか?」に対するアンサーもばっちり確立されているのだろうけど。
そして、そのアンサーはたぶん、誰にも証明できないことだ。