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哲学に生き方を求めた若者

大学の哲学科に入り「自分の生き方を見つける」ことを期待して肩透かしをくった子がいるらしい。

友人からそういう話を聞いた。

その子は入学後、哲学の授業が歴史の勉強みたいなことばっかりでがっかりしたそうだ。

たぶんその学生は人生の指針かモットーを求めていたのだろう。正直、その気持ちもわかる。

哲学のからくり

本屋でも、生き方のガイドブックのようにしてニーチェの本が置いてあったりする。私たちはどうも「かしこい人なら答えを知っている」と期待しがちだ。

でも、その期待には大切な、あまりにも大切な部分が抜けている。

それは、立ち向かうべきテーマが「何度ためしても同じ結果がでること」でないと、自分よりかしこい人のアドバイスが役に立たないという前提だ。

とくに西洋の哲学は「因果律」へのこだわりが強い。なにごとにも原因と結果があるよ、という考え方のことだ。みんな知っているとおり、そんなことはない。

唯一オススメできる哲学

そういう意味で、生き方のヒントを1つ得るとすれば、私は「無知の知」をオススメしたい。ソクラテスの考え方である。

「本当に大切なことは、誰にもわからない」というものだ。実践的なレベルまで落とし込むと、「わからないという事実を認めよう」ぐらいの意味になる。

というわけで、なんだか「一休さん」のようだが、哲学は人生のヒントにならないということが唯一のヒントである。

自分自身に対してこう思えるなら、先に書いた「かしこい人」というのも、「ある分野にくわしい人」だと気づく。言い換えるなら、別の分野に対してはまったくの無知な人である。

かしこい人が言ったからって、何でもかんでも信じていいものかな?よく考えよう。

信条の形成

そもそも人間は、確固たる人格としての行動原理を持っていない。だからこそ、ダイエットしようと決意しながら食べ過ぎたりする。

フロイトという人が、えらく「無意識の存在」にこだわっていたけれど、実は「無意識」なんてものは、今のこところ発見されていないのだ。

そういう側面から、歴史の勉強が必要になるのである。かつて「地球はまっ平らだと思われていた時代がありました」みたいなことを知っておかないと、数百年前に書かれた本をうのみにしたりする。

ゆれる思い体じゅう感じて

人間の生き方というのは、あんがい一定ではないのだ。東洋的な思想なら「すべては変わりゆく」というものもある。でも、その説すら証明できない。

神様はきっと私たちを見てあきれているだろう。もしかしたら笑っているかもしれない。

若者はどこへ行く

友人が語ったその学生さんを私は知らないが、もし私自身に対してその学生さん、仮名をボブとして、彼が「生きるうえで、これだという確固たるものは何であるか」と質問したなら私はこう答える。「...愛じゃよ」と。

ところで今、ボブはどこで何をしているのだろう。もう人生の指針を見つけたのだろうか。もしまだ見つかっていないなら、探していてほしいと思う。そして、いつか見つけてほしいとも思う。