見出し画像

山陰の小京都・津和野

前回、毛利家の再出発の拠点となった萩城と城下町がテーマでしたが、今回は、その毛利家の家臣として萩に出丸を築いた吉見氏と、彼らが拠点としていた津和野についてお話したいと思います。
 
津和野城(三本松城)
標高362mの山上に築かれた山城です。今では建造物はありませんが、石垣はほぼ完全な形で残されており、2007年には日本100名城のひとつに選ばれています。
 
本丸と出丸の間に大きな三本松があったことから、三本松城と呼ばれていたようです。

吉見氏の盛衰
1274年と1281年の2度にわたり元寇に見舞われた鎌倉幕府は、更なる蒙古襲来に備えるため、吉見頼行(よしみよりゆき)を沿岸防備の地頭として西石見地方に派遣し、津和野に城を築かせたとされています(最終的に、2代目の頼直が1324年に山城を完成させた)。
  
時は下って1551年、陶晴賢(すえはるかた)が謀反を起こして周防・長門国の当主・大内義隆(おおうちよしたか)を自害に追い込み(大寧寺の変)、大内義長(おおうちよしなが)(注1) を傀儡として主導権を握ると、翌1552年、義理兄を殺された吉見正頼(よしみまさより)が、陶晴賢を打倒するため挙兵します。

吉見氏、大内氏、陶晴賢の関係図
(Created by ISSA)

(注1)  元々、義長は豊後国の大友氏の一族で、1543年に男子が居なかった叔父・義隆に養子として迎えられたが、1545年に義隆に男子が生まれると義隆から斥けられるようになっていた
 
1554年、陶晴賢とその傀儡・大内義長が三本松城に籠城する吉見正頼を攻め、およそ100日間で12回に及ぶ攻防戦が続きましたが、三本松城は陥落しませんでした(三本松城の戦い)。
 
陶晴賢は1555年、大内義長は1557年に、いずれも毛利元就の軍勢に敗れて自害しました。
 
その後、吉見正頼は、萩の指月に居館を築いて隠居していましたが、1588年に没し、1600年に関ヶ原の戦いで西軍が敗れて毛利輝元(もうりてるもと)の萩入城が決まると、正頼の子・吉見広頼(よしみひろより)は、萩から少し離れた大井浦串山へと立ち退きとなります。
 
また、広頼の子・広長(ひろなが)も、東軍の坂崎直盛(さかざき なおもり)に津和野城を明け渡し、萩に退転しました。直盛は山城とともに城下の整備(注2) も進め、今日に続く津和野の基礎を築きました。

津和野らしい風景が広がる「殿町通り」
江戸初期の白壁の武家屋敷が建ち並ぶ 
(Photo by ISSA)

(注2) 掘割に鯉が泳ぐ「殿町通り」の町並みは、この時に整備されたもので、当時は防火用水路として整備された(側溝での蚊の発生を抑えるために鯉の養殖を始めたという)
 
1617年からは亀井政矩(かめいまさのり)の居城となり、その後、1871年の廃藩まで約250年にわたり亀井氏が城主を務めました。

津和野城下町
津和野城下町は、山紫水明の美しい静かな土地で、清流・津和野川、緑溢れる風景、往時の面影から「山陰の小京都」などと呼ばれています。

亀井政矩は、山麓の居館を津和野藩邸とし、津和野川沿いに城下町を整備しました。
 
1786年、亀井矩賢(かめい のりかた)が藩校・養老館を創設し、森鷗外(後述)など多くの人物を育成しました。

上:津和野藩家老屋敷跡「松韻亭」    
下:津和野のメインストリート「本町通り」
(Photo by ISSA)
左上:古橋酒造株式会社  
右上:雑貨店・海老舎   
左下:竹風軒本町店    
右下:津和野カトリック教会
(Photo by ISSA)

鷺舞
鷺舞(さぎまい)は、元々、京都の八坂神社で奉納される伝統舞踊でしたが、疫病鎮護のため、1542年に吉見正頼が山口に伝わっていた祇園会の鷺舞を津和野でも行うようになったといわれています。
 
津和野弥栄神社の鷺舞は、1994年から国の重要無形民俗文化財に指定されています。

街の至る所で見かける鷺舞の造形物
上:津和野町日本遺産センター  
(Photo by ISSA)

弥栄神社
この鷺舞は、弥栄神社(やさかじんじゃ)の祭礼として神輿の巡行に供奉し、毎年7月20日は本社から御旅所(おたびしょ)まで、27 日には御旅所から本社へと2羽の鷺が優雅に舞い歩き、途中、定所で鷺舞が行われます。

弥栄神社
(Photo by ISSA)

太皷谷稲成神社
弥栄神社を更に進めば、太皷谷稲成神社(たいこだにいなりじんじゃ)の麓に辿り着きます。1773年、亀井矩貞(かめいのりさだ)が津和野城の鬼門の方角に建てた神社で、日本五大稲荷神社のひとつとされています。

太皷谷稲成神社
(Photo by ISSA)

麓から高台の神社まで、鳥居のトンネルが続きます。更に、神社に隣接するリフトに乗れば、津和野城跡方面に上がることができます(リフトを降りて、頂上まで徒歩20分)。

森鷗外
津和野出身の森鷗外は、1872年に10歳で父と上京。東大医学部卒業後は陸軍軍医になり、1884年から留学生としてドイツで4年を過ごしました。
 
帰国後は陸軍大学校教官を務めましたが、ベルリンで出会った女性が鷗外を追いかけて来日したことがあり、小説「舞姫」の素材になりました(後年は文通するなど、鷗外はその女性を生涯忘れることはなかったという)。

舞姫(サクラ) - 森鷗外記念館
(Photo by ISSA)

その後は日清戦争、台湾勤務を経て、1907年には、陸軍軍医のトップである総監(中将相当)にまで上り詰めました。
 
この間、前述の舞姫、うたかたの記、ヰタ・セクスアリス、雁など数々の小説を発表。軍人であり、医者でありながら、語学に長け、文学者であるという実に多才な人物像がうかがわれます。

左上・右上・左下:森鷗外記念館
右下:隣接する森鷗外旧宅
(Photo by ISSA)

1922年、親族と親友らが付き添う中、肺結核で死去。享年60歳でした。
 
「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」
親友に書きとらせた遺言の一節です。波乱万丈の人生にあっても、いつも胸の内には故郷・津和野への憧憬があったのでしょう。

津和野のグルメ
最後に、毎度恒例のご当地グルメをご紹介😋

左上:郷土料理「うずめ飯」 - 沙羅の木 松韻亭  
右上:豆由来の健康茶「ざら茶」 - 香味園 上領茶舗
左下:津和野銘菓・源氏巻           
右下:栗のぐらっせ              
(Photo by ISSA)

おわりに
柳井、岩国、萩、津和野と、4回にわたって中国地方の史跡や伝統文化をご紹介してきました。
 
転勤族の私は、若い頃に上司から、「転勤に苦労はつきものだけど、行く先々で、その土地や人が好きになるように努めなさい」と教えられました。
 
そういうこともあってか、転勤先では出来るだけ地域の歴史・文化をはじめ、過去の為政者やリーダー、時には軍人・武人、文学者などの生きざまや、彼らが残した言葉に触れるようにしてきました。
 
これまでに数十回の転勤を繰り返した末、そうやって見分を広げてきたことが、いつの間にか自分自身の「お金では買えない財産」になっていたんだなあと、今更ながらにそう思います。
 
新たな知識が加わるたびに、それまでに積み重ねた知識領域とシナプスが繋がって見識や視野がどんどん広がり、同時に、その地域への理解や愛着が、更に深まっていく。
 
今の私にとり、郷土とはニッポンというこの国そのもの。こうした理解や愛着が更に広がり、いつしか誰もがこの地球そのものを郷土と呼べる平和な時代が訪れることを願って止みません🍀

太皷谷稲成神社に通じる鳥居のトンネル
(Photo by ISSA)

それでは、最後にこの土地の文学者が残した名言をご紹介して、本稿を締めくくりたいと思います。
 
 日の光を借りて照る
 大いなる月たらんよりは、
 自ら光を放つ小さな灯火たれ

          ~ 森鷗外 ~